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名産品館の中から聞こえてきた銃声に、糸屋浩之は眼前にいる春日井洸から視線を外し、建物に目を向けた。
ガラスの割れた窓の向こう、建物の中の様子を窺い知ることはできない。自分のリーダーである真神野威が銃を
撃ったのだろうか? それとも、別の誰かが――。
「お前と遊んでいる時間も、もうなさそうだな」
浩之は再び視線を春日井洸へと戻す。その視線の先にいたのは、満身創痍といった言葉が可愛く聞こえるほど
に痛めつけられた洸だった。最初から傷を負っていたが、洸は浩之との戦闘で更に傷を増やしていた。
試合のたびに大勢の女子生徒が応援に来ていた端整な顔は、その半分が血で濡れていた。鼻骨を砕かれ、
鼻腔から流れ出た血がまるで赤い髭のようになっている。腹を何度も殴打され、胃の中身が口から飛び出してい
た。彼の制服は土や血などで汚れきっており、不思議な斑模様の服になっていた。
投げかけられた言葉に、洸は応えない。いや、応える余裕がない、と言ったほうが正しい。なにせ立っているだけ
で精一杯なのだ。今となれば、自分が立っているという間隔さえ薄れてきているのだが。
馬鹿馬鹿しい戦いだ――と、浩之は思う。チームとしての戦力はもちろんの事、個々の力量で見ても、自分に
勝つ事ができないくらい洸は分かっていただろうに。各個撃破という考えは悪くはないが、実行するのであれば
真正面からは避けるべきだっただろう。
浩之は、春日井洸という人間を良く知らない。知りたくもなかった。周りから忌み嫌われ、侮蔑の目で見られて
いる自分たちと違い、洸は正反対の場所にいた。常に人の輪の中にいて、羨望や尊敬の眼差しで見られ――。
そしてそれを当然のように受け入れ、生活している洸の事など、知りたくもなかった。
ただ――今は、興味があった。彼が何故、こんな勝ち目のない、それこそ我が身を投げ捨てるような行為に
打って出たのか。彼の命がまだあるうちに、聞いておくのも悪くはない。気まぐれにも似たちょっとした考えから、
浩之はトドメをさすのを止め、洸に向けて問いかけた。
「何でこんな事をする。これがプログラムだっていう事ぐらいお前も充分に理解しているだろう。なのに何故、こんな
無駄な戦いをしようとするんだ。渡良瀬はともかく、お前や村崎が俺たちに敵うものか。お前は渡良瀬や村崎と
違って、もっと賢いと思っていたがな」
――何で、こんな事をする?
浩之から投げかけられた言葉が、頭の中で何度も何度も鳴り響く。教会の鐘の音のように、全身に響き渡る声
だった。
「何で、か……」
自分で自分に問いかけるように呟く。そうだ、何で俺は、こんな事をしているのだろう。何で、こんな目に遭って
いるのだろう。自分のことだから、もっと上手くやれたはずなんだ。やりよう次第では、プログラムで優勝する事だ
って出来たはずだ。
「ああ、そうか……大悟、お前か……」
洸の脳裏に、自分が手にかけた少年の顔が浮かぶ。彼が最期に遺した言葉が再び脳裏を過ぎり、その瞬間、
これまで引っかかっていた疑問が綺麗に溶けていた。奇妙な納得が、心の中にあった。
「そうだ、俺は……お前との勝負に、負けた。だけど――」
どうして彼があの時、あんな事を言ったのか。どうしてあんなことをしたのか。それが分からなかった。
どうして彼は、自分の命を奪った相手に、あんな事を言えたのか。恨みや憎しみ、恐怖ではなく、何故あんなに
安らかな顔で死んでいったのか。
「俺に、みんなを頼むって……俺なら、要求とかそういうのを関係無しに、みんなが困っていたら助けてくれるだろ
うって……。俺なら、進んで人を殺す事自体が違うという事に、いつか気付くだろうって、そう、思っていたのか?」
洸は本来ならば立っていられないほどの負傷に耐えながら、焦点の定まらない眼で浩之を見つめている。
「俺が、お前の言った事を黙って聞いて――こういう事をやってくれるんだろうって、お前は分かってたって事か。
お前は、全部――」
その声は淡々と事実を確認しているように呟かれ、浩之の耳までは届いていない。今にも崩れ落ちそうな身体で
何か不気味に独り言を呟いている洸を前に、浩之は怪訝な表情を浮かべて進行を一瞬、躊躇した。
薄っすらと、洸の口に微笑が浮かぶ。それはやや自虐的な笑みだった。中学に入ってから、同じ時を過ごした
友人が自分の事を理解してくれていたのに、洸はその友人の事を、まるで理解していなかったのだから。
――分かったよ、大悟。
霞がかった視界の中で、浩之が近付いてくる。もう、勝負を決めるつもりなのだろう。猶予はない。次の戦闘が
終わったときはもう、自分の命はないだろう。
――お前がやろうとしていた事は、俺がやってやる。もう、お前との勝負に負けたからとか、そういうのじゃない。
お前ができなかった事は、俺がやるべきなんだ。お前が信じていた、俺がやるべきなんだ。
洸は動かず、浩之はゆっくりと近付いてくる。元々は洸の支給武器だった小太刀は、彼の手の中にあった。
「どうやら、覚悟はできて――」
浩之がそう口にした瞬間、洸は「あああああっ」という叫び声を上げながら、全速力で浩之に向かって走っていき、
彼に体当たりを――する素振りを微塵も見せず、そのままその脇を通り過ぎていった。
完全に不意を突かれた浩之は、慌てて振り返り、洸の姿を目で追う。まさか、今になって逃げる気か? という考
えが浮かんだが、洸は自分たちが飛び出してきた建物の窓の下で、膝を地面に付けてうな垂れていた。
「力尽きたのか? 無駄な努力だったな、春日井!」
勝利を確信しながら、浩之は突進していった。振りかぶった小太刀が洸の身体に突き刺さるまで、あと数十センチ
――そこまで迫ったところで、うな垂れていた洸が振り返り、浩之は彼の目を見てはっとした。
それは見た事のない目だった。常に自信に満ち溢れ、いかにも自分は優等生ですという佇まいをしている、浩之
が知っている洸の目ではなかった。間近に迫る死に怯え、命乞いをしようとしている目でもなかった。
それは――覚悟をしている目だった。死ぬ事への覚悟ではない。既に決断をすませ、それに賭けている、洸の
決意が形となってそこに表れていた。
洸の右手が翻り、浩之目掛けて突き出された。やけくそのパンチではない。その手にはガラスが――洸がこの
場所に投げ出された時に突き破り、飛び散った窓ガラスの破片が握られていた。
し……しまっ――。
そう浩之が思った時には、もう遅かった。振り下ろされた小太刀が洸の背中に突き刺さった数瞬の後、浩之の
喉に、窓ガラスの破片が深々と突き立てられた。
「がっ…………」
浩之は口を開いたが、そこからはもう、言葉は出てこなかった。出てくるのは苦しげな呻き声と血だけだった。
やがてそれもすぐに止み、破片を取ろうと喉を掻き毟っていた手がだらんと垂れ下がるのと同時に、浩之は背中
から地面に倒れた。そしてそのまま、二度と動かなくなった。
洸は、自分が浩之に勝ったのか、浩之が生きているのかどうかすらも、分からなかった。洸もまた同じように倒れ
ており、意識だけがかろうじて残っている状態だった。
まだ何とか物事を考える事は出来るようだが、身体を動かす事はできないようだった。指先一つ、動かすことが
できない。今は7月で真夏のはずなのに、全身が妙に冷えている。寒い――というより、血の気が引いていくような
感覚だった。
これで、良かったのだろうか。身体が朽ちていく感覚を味わいながら、洸は今ここにはいない、自分が殺した友人
に向かって話しかける。
悪いな、俺はもう、動けそうにない。お前が言っていた、皆を頼むって約束――全部はできそうに、ない。俺なら
もっと上手くやれるって、思ってたんだけどな。
無駄な戦闘は避けて、殺人も、極力控えて――大悟との勝負にケリをつけて、できるだけ悔いが残らないように、
優勝するつもりだった。自分なら出来るだろうと思っていた。
けれど結局はこのザマだ。大悟との勝負をつけるという目的は達成できたが、その結果は自分の負けで、彼の
命令に従って、そして、ここで命を落とそうとしている。
ああ、馬鹿だ。本当に馬鹿な事をやってしまった。しかしその思考とは裏腹に、彼の口元は、僅かな笑みを浮か
べていた。
――大悟。もしもここにいるのが俺じゃなくてお前だったら、どうなっていたんだろうな。
本当に、もしもそうなっていたとしたら、どんなに楽だっただろうか。
彼がいつもの悠然とした態度で「お前らみたいな奴は許せねえんだよ!」と言い放ち、自分の行動に一切の疑問
も持たず、レギオンのメンバーに立ち向かっていった事だろう。
思い描くその姿が生々しく感じられた。それは自分よりも、遥かに重みのある存在のように思えた。
洸の頬を、血ではない別の液体が伝い、流れていく。涙が止まらない。何故だろう。何故自分は、今更になって
泣いているのだろう。何故、今、後悔なんてしているのだろう。いや、後悔なんていう言葉では済まされない。あまり
にも大きなものが過ぎ去ってしまって、もう、二度と戻らない。
必要なのは、勇気だった。プログラムに乗る勇気ではない。友人を信じようという、大悟に、俺と一緒に戦おうと
言えるだけの、ほんの小さな勇気だった。
自分には――それがなかった。下らない理由ばかりつけて、無駄に足掻いて……そして最後は、これか。
そういえば、あいつは――村崎薫(女子15番)はどうしているだろう。麻生竜也(男子1番)
と戦っているはずだが
彼女は無事だろうか?
――そうだ。まだ、死ぬわけにはいかないんだ。あいつとの約束……まだ、残っている。せめて、村崎と渡良瀬を
助けないと……だから、俺は、まだ――。
プログラムにおいて自分の進むべき道を探し、彷徨い続けた洸の意識は穏やかに、そしてゆっくりと闇の中へ
落ちていった。
男子2番 糸屋浩之
男子4番 春日井洸 死亡
【残り12人】
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