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 奇跡は起こらない。



 大抵の場合、物語は奇跡も番狂わせもなく、ありふれた脚本のような進行をする。

 村崎薫と麻生竜也のバトルもそうだった。ただしこの勝負に限って言うならば、相手が竜也であった

ことはあまり大きな意味がない。薫はただ実力の差と言うだけで、こうして地に付しているわけでは

ない。口の端から血を流しながら、歯を食いしばってうつ伏せになっているわけではない。



 今、会場で生き残っている生徒の誰と戦っても、勝負は同じ結果になっていただろう。 桐嶋潤(男子

6番)
永倉歩美(女子10番) といった、実力差が明らかな相手ならばまだ分からないが。







「喧嘩する時はよ、馬鹿みてーに怒り続けたまま、やらねえほうがいいぜ」

 かつて、学校の帰り道で、渡良瀬道流がそんな事を言っていた。



「ブチ切れたりすると全身に力が入るっつーか、すげーやる気が出るんだよな。アドレナリンだったっ

けか? そういうのが出て、向こうから殴られても、あんまし痛くねーんだよ。気にならないっつーか」

「えー? だったら、そのままケンカしちゃったほうが得じゃない?」

「まあな。それがずっと維持できるんならな」

「維持……?」

「おう。俺の経験上なんだけどよ、ブチ切れて全力で喧嘩すると、喧嘩が終わった後の疲れがハンパ

ねーんだわ。途中でガス欠しそうになるしよ。長続きしねーし、それどころか、かえってこっちが疲れ

ちまうんだ」

「それって、マラソンとかでスタートダッシュだけ早くて、あとは疲れちゃってる人みたいな?」

「似たようなもんだな。キレて喧嘩するんなら、最初だけにしといた方が利口だぜ。最初にすぐさま

相手をぶちのめすか、自分のペースを保つかだな。じゃねえと、後でこっちが不利になっちまう」






 その時は「でも私、喧嘩なんてしないし。かわりにみっちゃんがしてくれるでしょ?」というような事を

言ったような気がする。

 道流が言ったその言葉を思い出していたら、こうして地に伏している事はなかったかもしれない。

 しかしそれはあくまで結果論に過ぎず、恨みや怒りといった感情に任せて戦った末、竜也に有効打

の一発も当てることが出来ず、無様に地に伏しているのが現状だった。





「ヒャハハハ! ほんっと、情けねえよなあ、お前。あんだけ偉そうな事言っておいてもうダウンかよ」

 倒れている薫の脇腹を爪先で軽く蹴り、竜也は笑い声を上げる。

 顔に痣を作っている(といっても、そのほとんどは前日に威によってつけられたものだが)薫に対し、

竜也は服が多少汚れている程度だ。前日、道流の攻撃で受けたダメージは残っているはずだが、

それでも勝敗の差ははっきりと見て取れた。

 手も足も出ず――というほどではないが、手加減をされて、負けてしまった。



「はッ! 馬鹿だよなぁ。戦わないで素直に逃げてれば、もうちょっとは長生きできたかもしいれない

のによ!」

 目の端に浮かんできた涙を、気づかれないように手の甲で拭う。痛さや恐怖などではなく、ただ単純

に悔しかった。全力を出して、戦って――こんな最低な奴に、手加減されて負けてしまうなんて。

 ただ幸いにも、彼女の支給武器であるベレッタM8000クーガーは竜也に奪われる事はなかった。

正確に言えば銃を抜き出す前に攻撃を受けたので、その存在を彼に気付かれていないのだが。



「さーて、どうすっかな……浩之のほうも、もうそろそろ終わった頃か? 人質はもう足りてるし……」

「……人質?」

「そうだよ、人質。威が思いついてさあ、渡良瀬の野郎を倒すために人質を取るって言ったんだよ。

まああいつと仲が良ければ誰でも良かったんだけどな。偶然、うまい具合に黛の奴がいてさぁ。ほら、

あいつって渡良瀬と昔から付き合いあるらしいじゃん? だからこりゃ適任だって、ちょっと人質に

なってもらったってわけ。まあ、ちょっと無理矢理だったかもしれねーけどさ」

 黛、という名前が出てきた瞬間、薫の全身が凍りつく。

 今、よりにもよってこのタイミングで真理の名前が出てきた事の意味。それを即座に理解してしまっ

たからだ。



「なっ……真理ちゃん? 何で、真理ちゃんが……あんたたち、真理ちゃんに何かしたの!?」

「おーおー、したした。そりゃあもうしましたよー、いろいろと。お前のお友達には随分と世話になった

ぜえ?」

 薫の変化をニヤニヤと眺めながら、竜也は楽しげに声を荒げて言い放つ。

「ははッ! お前もムカつく野郎だが、ただ殺すのじゃあ勿体ねえなあ! 友達同士、仲良く同じ目に

遭わせてやろうか? 最初は抵抗すんだけど、あとになると泣くだけで無抵抗になる姿とかそそるよ

なあ! つーかお前はまだ運がいい方だぜ。威に比べたら、俺に方がまだ人道的ってもんだからな。

ハハッ……ヒャハハハハハッ!!」



 それほど広くないこの建物の中で、次第に大きくなる竜也の笑い声。それは更に膨れ上がり、巨大

な音の塊として薫に襲い掛かった。



 その笑い声の間を縫うようにして、聞き慣れたあの声が――深山真冬の声が、耳に届いた。



『薫、立てるか?』

 声は、届いていた。しかし返事はできなかった。

『向こうの部屋の様子を見てきた。信じられないが、あの渡良瀬っていう奴が……』

「真理ちゃんは」

 真冬の声を遮り、すぐ傍にいるであろう彼にようやく聞こえるような音量で、薫は呟いた。

「真理ちゃんは、無事? 真理ちゃんは向こうにいたの?」

『…………』

 真冬からの返事はない。押し黙り、先の言葉を言おうとしなかった。いや、言えないといった方が

正しいだろうか。



「お願い、答えて。答えてよ……真冬くん」

『……無事じゃ、なかった。まだ死んではいない……けど……あの様子を見る限り、お前が言って

いる真理って子は、あいつらにレイプされている』

「そんな……」

 唇を震わせながら呟く薫を見て、竜也はトドメの言葉を吐き出した。



「やあっと気づいたのか? そうよ、お前のお友達の黛真理さんは俺らで犯させてもらいました!

何を血迷ったか威に歯向かおうとするからこうなるんだよ! ま、あいつも死ぬ前に経験できて、他の

連中よりはマシだったんじゃね? ギャハハハハハ!!」

 竜也が告げる前から、何となく、真理の身に何が起きたのかは想像ができていた。

 それでも真冬に安否を尋ねたのは、もしかしたら自分の考えを否定してくれるのではないか。彼女

は無事だよ、なにもされていない。という言葉を聞きたかったから。自分の考えが間違っていたという、

万が一を遥かに超えた僅かな希望にすがっていたからだった。



 だがそれも、もうない。

 すがるべき希望は、もうない。起こり得ないのだ、この状況下では。

 あるのはただ、圧倒的に無慈悲で残酷な現実。そしてそれを受け入れられるかどうか。





 ――受け入れる? これを? この、馬鹿みたいな現実を?





 薫は顔を上げ、先程までとは違った目つきで竜也を睨み付けた。 

 先程まで薫の中にあった、怒りとか悲しみとか憎しみといった感情とは違う――何かを悟ったような、

静かな覚悟の色がその目に満ちている。

 急に雰囲気の変わった薫を見て、竜也はゲラゲラと笑いながら問いかける。



「なんだ? 土下座でもして許してもらおうって気にでもなったか? まあ、助けねえけどよ」

「別にいいわよ。助けなくったって。その代わり……」

 両手を床につき、ゆっくりと身体を上げると同時に、体勢が整うのを待たず、薫は地面を蹴り出して

いた。陸上のクラウチングスタートをもっと低姿勢にしたような、まるで肉食獣のような動きだった。

「私も、あんたを助けない!  絶対に許してなんかやらない!」

 薫の拳が、竜也の顔面を初めて捉える。





「がっ……!」

 そのダメージはむしろ、肉体よりも精神のほうに響いただろう。つい今まで格下と見て蔑み、玩具の

ように扱ってきた相手から殴られたのだから。

「こっ……の野郎がぁ! ふざけてんじゃねえぞおおおお!!」

 薫と竜也は手を伸ばせば相手を掴めるほどの近距離にいる。竜也は薫の襟を掴んでから殴りかか

ろうと手を伸ばしたが、薫はそれを竜也の懐に潜り込む形でかわし――再び、彼の顔に拳を叩きつ

けた。



「ざっけんじゃねえぞ! てめえなんかが、俺を倒せるわけねえだろうが!」

 そう、その通りだった。

 竜也と薫との間には、努力や根性などと言ったものでは到底覆せない、実戦経験の差がある。腕力

に関しても男女の差がある事から、今の薫の攻撃は大した効果を与えられていないことは薫にも分か

っていた。



 しかし勝機はある。



 続けざまに二回も攻撃を受けたことで冷静さを失ったのか、竜也は腕を大きく振りかぶり、握り締め

た拳を全力で振るってきた。打った後の、外れた後の体勢のことを全く考慮していない。テレフォン・

パンチと呼ばれている、攻撃の軌道が予測しやすく、避けやすい単調な攻撃を繰り返していた。

 不気味なほど、頭の中が静まり返っていた。

 つい先程まで感じていた様々な感情が、薫の頭の中から全て消え去っていた。何をするべきか考え

るより先に、身体が反応している。竜也の攻撃を避け続けることができているのも、さほど驚きはなか

った。



 薫の中から、感情が消えてなくなってしまったわけではない。その逆だった。今の薫は、たった一つ

の目的のために、異常なほどの集中力を発揮していた。余計な思考、感情がなくなり、そのためだけ

に没頭している。



「あんたは、私が殺す」



 友人の真理がこいつらにどんな目に遭わされたのか、もう分かっている。

 それに気づいたとき、薫は大声を上げて怒りを表に出す事も、泣き叫んで崩れ落ちる事もしなかった。

 過程にある思考、感情を飛び越え、彼女の思考は”竜也を殺す”という最終地点に辿り着いていた。



「できるってのか? てめえみてえな腰抜けによぉ!」

 戦闘を始めたばかりのときとは対照的に、今度は竜也が怒りに我を忘れ、薫に翻弄される事になって

いた。よほど殴られたことが屈辱的だったのか、竜也は先程から大振りの攻撃か、薫を捕まえようと

いう動きしかしてこない。



 皮肉にも、薫が劣勢になったときと同じ方法で、竜也もまた、自分の優位を失っていた。

 薫と竜也との間にある力の差――それは竜也から見たほうが、分かりやすいのだろう。下から見上げ

るよりも上から見下したほうが、上下差はよく分かる。だが何らかの形でその差をなくしてしまえば――

本来ならば、大勢で敵を倒すという『レギオン』のスタンス。それを破棄し、一対一という状況で戦って

いるこの状況で、竜也は自分と相手との差を、正確に認識できているだろうか。

 薫は背中とスカートの間に差し込んでいたベレッタを引き抜いて、その銃口を竜也に向けた。それを

見て、竜也は絶句する。






 次の瞬間、竜也は右肩から血を吹き出して背中から床に倒れた。傷口を左手で押さえるが、その下

の赤い染みはゆっくりと広がっていっている。当然、手で押さえるだけで痛みが和らぐわけでもない。

竜也は甲高い声で小刻みに悲鳴を上げ、床の上をごろごろと転げまわっていた。



「こ、こ、この野郎……! てめえ、何してんのか分かってんのかァ――!?」

「うっさいわよ、馬鹿」

 続いて、竜也の右脚から血飛沫が上がった。今度の痛みは先程のものより大きかったのか、竜也は

「ひぎゃああああああ」という情けない声を上げた。



 深山真冬は息を呑み、ただこの光景を見ていることしかできなかった。薫は今の二回とも、銃を撃つ

のに一切の躊躇がなかった。沖田剛を撃った時とは違う。こうすることが当然だ、とでも言わんばかり

の空気が彼女にはあった。



 薫は無言で竜也に近付き、そのまま馬乗りの体勢になった。仰向けにさせられ、逃げれなくなった

竜也の顔面に向けて――両手で構えたベレッタを、突きつける。

 竜也が目を剝き、ひっ、と息を呑む音が聞こえた。何かを言おうとしたのか、口がわずかに動いたが

――言う事はできなかった。ドンドンドン、と、続けざまに放たれた3発の銃弾は全て彼の顔に命中し、

麻生竜也という少年の命を一瞬で破壊してしまった。






 殺せない。

 自分は人を殺せないと思っていた。

 自分からは人を殺せないと、思っていた。

 人を殺すのは悪で、罪になる。そんな事、物心ついたときから知っている、当たり前の事だった。

 けれど。

 自分が殺されかけたときに殺すのは悪くないのか。直接手を下さなければ、殺人じゃないのか。

 生きていてもしょうがないと思うような悪党を殺しても、罪になるのか。

 人を殺してはならないという、絶対の禁忌。

 自分はこんなゲームに乗っている奴らとは違うと思っていたボーダーライン。

 それは、越えてみればとてもあっけない。

 結局は、自分も――。






 薫はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがで膝から床に座り込んだ。その顔には喜びも悲しみ

もなく、何かが抜け落ちたような、空虚な表情があった。

 そして彼女は、自分の横にいた真冬の顔を見つめて――「私、人を……殺しちゃった」とだけ呟き、

声を押し殺しながら、泣き崩れた。



男子1番 麻生竜也   死亡

【残り14人】



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