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 道流が威の後に付いて行く形で薫たちの前からいなくなってから数分。彼のものと思しき怒声は、

扉一枚隔てた場所にいる薫たちにも、はっきりと聞こえてきた。

 これに真っ先に反応したのは薫だった。ばっ、と顔が扉の方へ向いたかと思うと、彼女に胸に去来

した思いが「みっちゃん……!」と、彼女の口から言葉となって発せられていた。

 薫の意識はもうこちらではなく、扉の向こう、道流がいるあちら側へと向けられていた。しかし、これ

を見通していたかのように、真冬が「俺が様子を見てくる」と薫の耳元で囁いた。



『薫、状況を見誤るな。お前は今、敵の真っ只中にいるんだぞ。まずは自分の身の心配をしろ』

「けど、今の声聞いたでしょ? きっと、みっちゃんに何かあったのよ」

『それは俺も分かっている。だが、何かあったときに単独で状況を打開できる可能性があるとしたら、

それはお前じゃなくて、あの渡良瀬って奴の方だろう。あいつが強いっていうのは、お前も知っている

んだろう?』

「……うん」

『なら、信じて待つんだ。気持ちは分かるが――これはプログラムなんだ。目の前の事から気を逸ら

したら、死ぬぞ』



 死ぬ。

 聞き慣れたその単語が、決して珍しくはないその言葉が、ひどく重く、深く、薫の身と心に圧し掛か

かってきた。

 今はプログラムで、ここは戦場。生と死が紙一重で隣り合う場所。一度死んだ、既に死んでいる

真冬の口から放たれた”死”という言葉が、薫を一気に現実へと引き戻した。



「ヒヒヒッ、あっちじゃあ早速始まってるみてえだなあ」

 レギオンのメンバーの一人、麻生竜也が、文字通り薫と洸の前に立ちはだかる。

「じゃあ、こっちもとっとと始めるとするか。威は何も言わなかったがよ、お前らを黙って見過ごして

おけってわけにはいかねえもんなあ」

 直接口にはしなかったものの、それは「お前らを殺す」と言っているようなものである。

 もともと会話やら和解を期待していたつもりはないが、ここまでストレートだとむしろ好都合だ。

 考える事が少ないというのは良い。何か一つのことに集中できるから、余計な事を考える必要が

なくなるから、そして――全力で向き合えるから、考える事は、少なければ少ないほど、良い。



 薫がステアーを構えた瞬間、竜也と、彼の隣にいた糸屋浩之が動いた。

 竜也は真正面から薫に向かってくる。浩之は薫から見て左側から回り込むような形で走り出した。

 一瞬、迷いが生じた。竜也に向かって合わせていたステアーの銃口が右往左往する。生じた隙は

ほんの僅かなものだったが、竜也と浩之にとっては充分すぎる時間だった。



「ヒャハハハ! 余所見はいけねーぜ!」

 銃身を蹴り上げられた勢いで、ステアーがくるくると宙を回転しながら、薫の手から離れていった。

「銃がなけりゃあ、お前は俺に勝てっこねえもんなあ!?」

 固く握り締めた拳を振るいながら、竜也は言う。

「あの時だってそうだ! お前が助かったのは、渡良瀬の野郎が助けてくれたからなんだよ! だけ

ど、今ここにあの野郎はいねえ。頼みの綱の銃もない! お前が俺に勝てるなんて事は絶対にない

んだよ!」

「はあ? 何勝手に決めつけちゃってんのよ! そんなに偉そうな事言われたら、何が何でも勝って

あんたの間抜け面を拝んでやんなきゃ気が済まないわ!」



 と、反論したはいいものの。

 銃というアドバンテージを失ってしまった以上、薫の優位は完全に覆されてしまったと言っていい。

厳密に言えば彼女はまだ銃を所持しているのだが、素早く懐に潜り込み、矢継ぎ早に攻撃を繰り出

してくる竜也を前に、銃を出しあぐねているという状態だ。

 もし銃を向けたとしても、それと同時に狙いをつけて撃つぐらいの真似をしなければ、先程と同様に

銃を蹴り飛ばされてしまうだろう。

 それならばまだいい。もしも、その銃が竜也の手に渡ってしまったら――。



「へえ、そりゃ面白ぇ! やれるもんならやってみろよ。つーかよ……お前まさか、ケンカで俺に勝て

ると思ってんのかぁ!?」

 バックステップをして薫との距離をとり、そのまま勢い良く飛び蹴りを繰り出す。大味な技ではある

が、流れるような動きで次の攻撃に移ってくる竜也のそれは、隙が少なく薫の回避行動を遅らせた。

 咄嗟に両腕を交差して身体の前に盾として展開するが、男女の力の差は大きく、衝撃を吸収しき

れずに薫の身体は後方へ吹き飛ばされた。

「わりぃわりぃ、ちょっとやりすぎちまったか? けどよー、結構難しいんだぜ? 手加減しながら

ケンカするってのもよ」

 ひゃははは、と下品な笑い声を上げ、竜也は悪びれもせずに言った。



 こいつ、最低だ――。薫は顔を歪めながら思った。痛みや、悔しさからではなく、腹の底から湧き

上がってくる怒りに。

 薫は背中に差し込んでいる自身の支給武器、ベレッタM8000クーガーに手を伸ばした。

 考えるまでもなく、竜也たちはこのゲームに乗っている。彼は、彼らは――何人のクラスメイトを

手にかけてきたのだろう。目の前で浩之に殺された橘千鶴の顔が脳裏に浮かび、薫は唇を噛み締

めた。

 やらなければ、やられる――。幾度となく突きつけられたプログラムの本質が、再び薫の前に壁と

なって立ちはだかった。







「正直なところ、お前がいるとは思わなかった」

 薫と竜也の戦闘を横目に、糸屋浩之は自身のトレードマークともいえる黒いサングラスを外した。

「前にあの二人と会ったときに、お前はいなかったからな。それに……鏑木がいないのも意外だ。

お前がいれば、鏑木がいたほうが自然なんだがな」

 鏑木、という言葉を聞き、洸は僅かに顔をしかめた。



「悪いが、お前たちにはここで退場してもらう」

「……意外とよく喋るんだな。知らなかったよ」

 同じ教室で机を並べて生活していたとはいえ、洸と浩之は、学校生活の中でほとんど接点がなか

った。片やバスケ部に所属する優等生。片や不良チームの一員の、中学生とは思えない強面の

少年。

 互いが互いの世界で生きてきて、その世界は隣り合う事も触れ合う事もなく、領域は侵されずに

済むはずだったのだろう。例え触れ合ったとしてもそれは一瞬で、お互いの記憶からすぐに抜け落

ちるような、儚い邂逅。



 洸は、浩之の事をよく知らない。浩之も、洸の事をよく知らない。

 ――ああ、なら、都合がいいじゃないか。

 洸は心の中で呟き、支給された武器である小太刀を抜き出した。

 ――よく知っている相手を殺すよりは、よく知らない相手を殺すほうが、都合がいい。



 浩之が身構えるより先に、洸が動いた。小太刀を腰の高さに構え、左右にステップを挟みながら

浩之に肉薄していく。バスケットで相手ディフェンスをかわす際に用いる動きだった。

 普段のケンカではおよそ見ない動きに目を見張ったのか、浩之は反射的に後ろへ下がる。それが

運良く、洸が突き出した小太刀をかわす事になった。

 瞬間――伸びきった洸の腕、ちょうど手首の辺りを、浩之の大きな手ががっしりと掴んだ。そのまま

ぐい、と洸の身体が引き寄せられ――勢いのついた浩之の拳が、洸の顔にめり込んだ。



「…………っ!!」

 声にならない悲鳴――いや、それはもはや悲鳴ではなく、ただの音だった。浩之の拳は重く、一撃

を受けただけで頭の中に電流が走る。鏑木大悟との戦いで洸の顔は散々痛めつけられていたが、

今の一撃で、彼の鼻は完全に砕かれてしまった。

 鼻腔から溢れた血が喉にも逆流し、呼吸が困難になる。思わず前屈みになった洸の顔を、浩之は

容赦なく蹴り上げた。

 ガクン、と天に跳ね上がった洸の顔。血飛沫が、まるで花弁を思わせる形で飛び散る。たたらを踏

んで後退する洸の襟を掴んだ浩之は、彼の腹部に二度、三度と膝を入れた。電気ショックを受けて

いるかのように、洸の身体が大きく揺れる。



 浩之が手を離すと――洸はそのまま床に崩れ落ちた。小太刀はまだ握られているものの、反撃に

移る様子は見られなかった。

「刃物を見れば怯むとでも思ったのか?」

 浩之の声が聞こえるが、反応する気にはなれない。立ち上がろうとするだけで精一杯だった。

運動神経が良いだけの人間と、常にケンカをしてきた人間――言うなれば、プロとアマチュアの差。

実力に開きがあることくらいは分かっていた。

 しかし――まさか、これほどとは。



「他人の事を言えないが、お前も随分酷い傷を負っていたな。ここに来る前に、誰かにやられたか。

まあ、それがなかったら互角になっていた――とは言えないがな」

 レギオンのメンバーから銃器は殆ど奪ったという情報は、薫と道流からの話で事前に知っていた。

ならば刃物を持つ自分の方が有利かとも考えたが、どうやら甘かったらしい。

 強い人間は、多少の有利不利や小細工など物ともしないのだろう。あの、渡良瀬道流がそうである

ように。

 鼻からぼたぼたと流れ落ちる血を拭おうともせず、逆流寸前の胃の中身を必死に押さえ込み、洸

は震える足で立ち上がった。



 だが、浩之はそこで手加減するほど、優しい人間でもない。

 洸の身体が、まるでカタパルトから発射されたロケットのような勢いで、空を飛んでいった。窓ガラス

を突き破り、名産品館の外へと、一本背負いで投げ出された。地面に背中を強く打ち、転げ回るよう

に倒れ込む。

 背中と――それに、腹と、顔の痛み。嘔吐感だけでも堪えるのに必死だったのに、背中を強打して

鼻からの流血は止まらず、呼吸をするのも困難になっている。事態は深刻だった。

 幸いにも、切り傷はどこにもないようだった。体勢を立て直そうとするも、全身という全身がぶるぶる

と震え、痙攣するばかりだった。



「ぐっ……うう……」

「随分とつらそうだな」

 浩之は割れた窓を開いて、外に飛び降りた。彼はほぼ無傷だった。思えば、最初の一撃をまとも

に受けてしまったのが、致命的だった。

「もういいだろう」

 浩之が、洸の腕から小太刀を掴み取って、言った。

「これ以上抵抗してどうなる。勝敗はもう明白だろう。お前が抵抗さえしなければ、楽に殺してやる。

俺は威と違って、そこまで他人を痛めつける趣味はないからな」

「……ここまで痛めつけておいて、よく言えるな」

「これでもまだ、人道的なつもりなんだがな」

 立ち上がろうとしても、立ち上がれなかった。両手と膝を地面につけ、まるで許しを請うかのような

姿勢で浩之を見上げる事しかできない。喋ろうとしても、言葉が途切れ途切れになっていた。



 そんな状況下でも、洸は考える事を止めなかった。諦めようとは、しなかった。

 この最悪の状況を打ち破る手段。完全に行き詰った状況を切り開く手段。

 そんな都合のいいものがあれば――今自分はこうして、こんな所にはいないだろう。



「大体お前は、もっと賢い奴だと思っていたがな。渡良瀬がいなくなった時点で勝ち目が薄くなったの

は明白だ。実力差が分からないわけでもないだろう。勝てない勝負はしないようなタイプだと思って

いたが」

「まるで、俺の事をよく知っているような口ぶりだな」

「このクラスの人間じゃ、お前が一番、威に似ているよ。そっくりというわけじゃないが、考え方という

か、タイプというか――曖昧な表現だが、効率よく事態を済まそうとするところとか、そういったところ

は似ている。頭に血が上ると、それができなくなるところなんかも、似ているな」

 糸屋浩之は、確信を抱いているような口調で言った。



「今、お前とちょっと戦った時に感じたが――お前、本当に俺を倒そうという気はあるのか? 俺は、

お前が何故この戦いに身を投じているのか分からない。俺や、俺のチームに対する恨みや憎しみが

あるという風でもないし、ケンカをするのが好きだとか、他人を痛めつけるのが好きだというわけでも

ない。勝手な推測だが、お前が戦う理由があるとすれば、それはもっと合理的な理由――それこそ、

プログラムで生き残るため、とかだろう。もしそうだとしたら、お前はこんな所で、俺に戦いを挑んで

いるわけがないんだ。一旦退くとか、もっと勝率を高める方法はいくらでもある。自分の意思ではない

何か別の理由で、俺と戦っているようにも見える」

「……本当、思ったよりもよく喋る奴だな、お前は」



 確かに――洸は、浩之や彼のチーム『レギオン』に対する恨みはなかった。

 怒りも、恨みもない。そういった感情は戦う事に対する大きな理由となるが、洸にはそれがなかった。

――さっきの話……頼む。お前に任せたから。



 鏑木大悟の遺した言葉が、脳裏を過ぎっていく。

 ああ、そうだ……そうだった。

 桐嶋潤に会ったのに、殺そうとしなかったのも。道流や薫と合流して、今まで行動してきたのも。

 今、こいつと向き合って、性に合わないケンカをして、ボロボロになって、殺されそうになって、挙句、

心の中を見透かされているのも。

 全部――あいつのせいだった。

 あいつの言葉が、あいつとの約束が、洸を、こんな事に駆り立てていた。



「だが確かに……お前の言うとおりだ。こんな事、本当なら、俺のやる事じゃない」

 自虐的に呟いて、未だ痙攣の治まらない脚を手で押さえつけながら、姿勢を上げる。

「やる事じゃないが――それは、止める理由には、ならない。俺は負けたんだ。あいつとの勝負に、

負けた。だから――あいつとの約束は、守らなきゃいけない」



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