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 今でもたまに、思い出すことがある。夢を見ることの出来ない自分にとって、それはフラッシュバック

のように起こる出来事だった。



 湖のほとりで、誰かが立っている。その姿には見覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。

とても大切な人のはずなのに、なかなか名前が出てこない。忘れるはずがないのに、実際に会った

事のない、遠い存在のような気がした。



 やがて名前を思い出し、深山真冬は後悔と自責の念に駆られる。これは罰だ。自分が犯した罪を

忘れないようにするために、天が下した罪だ。でなければ何故、命を落として、思念だけの存在に

なってからも、このような思いをしなければいけないのか。






 担当教官である三千院零司が現れ、佐伯法子の命を奪ってから数時間が経った。あれから、

村崎薫(女子15番)渡良瀬道流(男子18番) の間で交わされる会話は目に見えて減っていた。

互いの関係が悪化したというわけではなく、単純にあのような事態が起こってしまったから、そういう

雰囲気になりづらいというだけなのだが、このままの調子が続けば、やがて二人の間に溝が生じて

しまうだろう事は明白だ。傍観者の立場にいる真冬がそれを感じているのだから、当事者の二人は

真冬以上にその事を理解しているだろう。



「疲れたな」

 鬱蒼とした茂みの中、デイバッグを足元に置いて、道流は溜息混じりに呟いた。地図で言うところ

G−06エリアに該当するここは、茂みを抜けて少し目を凝らせば、政府の連中が悠々と過ごしてい

るであろう須河原ホテルを遠目に望むことができる。

「少し休む? みっちゃん、さっきから動きっぱなしでしょ」

「――ああ、悪い。ちょっと座らせてもらうわ」

 道流はその場にどかりと腰を下ろし、デイバッグから水を取り出して、少しだけ口に含んだ。額に

浮かんだ汗を拭い、瞼を閉じてうな垂れる。



「ねえ、あまり無茶しない方がいいよ。私がこんな事言うなって感じだけど、このままじゃみっちゃん

の体が持たないよ」

「なーに言ってんだよ。俺とお前じゃ体の基礎構造が違うだろ」

 道流は軽い口調で答えていたが、薫は不安は消えていなかった。彼女の頭の中には、別のことが

よぎっていた。プログラムが始まって道流と合流してから、起きた出来事。自分の前で、道流が誰か

と対峙し、傷を負う場面が。



 ここにいるのに、何もできない。守ってもらっている、と言えば聞こえはいいが、それはつまり、自分

には事態を解決する力が備わっていなかったという事にすぎない。現に真神野威や三千院零司が

現れたときも、道流ではなく自分が相手をしていたら、もっとひどい結末になっていただろう。

 皮肉にも薫が抱いている無力感は、真冬が抱いているそれと全く同じものだった。ただ、真冬の方

が気持ちの強さとしては数段上だったが。



「俺の事を気にするより、自分の事を気にしろよ。俺はエスパーじゃないんだから、お前の身体の調子

とかまでは気付けない。何か違和感を感じたらすぐに言ってくれ」

 道流の声は優しかったが、先程まで含まれていた自信や元気さといったものが薄れているように感

じた。

「さっきの事ならあまり気にすんな。俺もお前も、最善を尽くした。出来るだけの事はやっただろ」

 それが嘘だという事はすぐに分かった。道流は、薫を元気付けるために言っている。でなければ彼

の口から、”出来るだけの事はやっただろ”なんて台詞が出るはずはない。



 道流は、誰かを守る、助けるという事に過剰なくらいに固執している。それは過去の出来事があって

の事なのだろうが、正直なところ、痛々しくて見ていられなかった。特に、プログラムが始まってからは

余計に。

 彼が過去の行いをどれほど悔やんでいるかは知らないが、ここまで自分を犠牲にする必要があるの

だろうか。道流が薫の事をどう思っているのかは分からない。しかし少なくとも、薫にとって道流は大切

な友人だった。そんな彼が自分を犠牲にしている姿を見るのは、自分の体を傷つけられるのと同じくら

いに辛い。



 小さくなっている薫の背中を眺め、真冬はやがて二人から視線を逸らした。

 どうしてこんなに苛立っているんだろう。他人の存在を不必要に意識したり、言動に過剰反応したり。

まるで、生前の自分を見ているようだから?



 思い出す。自分がまだ生きていて、プログラムに選ばれた時。真冬は当時、思いを寄せていた相手

を捜して会場の中を奔走していた。普段から特別に仲が良かったとか、そういう相手ではなかったが、

いつ死ぬとも分からない状況。せめて、想いだけでも伝えたい。そう思っての行動だった。

 それほど話した事もない自分の事を信用してくれるだろうか。考えれば考えるほど不安は募り、会う

のが怖くなった時もある。 しかし定時放送で次々と命を落としていったクラスメイトを目の当たりにし、

自分に残されている時間はとても少ないんだという事を悟った。何をするべきか悩んでいる暇なんて

ないというくらいに。



 真冬はほとんど休むことなく、会場の中を歩き回り、捜し続けた。今からしてみれば、我ながら無茶

な事をやったなと思う。移動すればするほど他の生徒との遭遇率が上がり、命を落とす危険性が高

まるプログラムでそんな事をするなんて、命を縮める以外の何物でもない。



 何回も殺されそうになった。何回もクラスメイトの死体を見た。傷つき、傷つけられ、そして遂には

人を殺した。震える手で包丁を握り締め、自分が殺めたクラスメイトの死体を見下ろしている時、これ

は本当に現実なのだろうかと思った。



 捜し人に会えないままプログラムは進行し、生存者の数が一桁になった時に、真冬は気付いた。

自分が今体験している出来事は、今までに何度も自分が見てきたものだという事を。そして自分は、

それを忘れてしまっているだけだったという事を。

 生きるために他の誰かを殺す。それは生物全体の観点からすれば当り前のことだ。鳥や虫だって

今日を生きるために他の生物を殺し、捕食する。人間も同じ事をしている。ただ、自分たちがその

当り前な現実を実感できていなかっただけに過ぎない。



 この世界は残酷だ。この世界で生きるという事。プログラムで生き残る事。そのどこが違うというの

だろう。

 それを意識するようになってから、真冬の心に変化が訪れた。誰かの死を知っても、誰かを殺して

も、心が大きく揺れ動く事はなかった。最初の頃は震えていた手も、今では変わりなく動かす事がで

きている。






 二回目の殺人を経験し、銃を手に入れたすぐ後に、真冬はずっと捜していた相手との対面を果た

した。ただそれはテレビで見るようなドラマチックなものではなく、彼女が自分と交流のあったクラス

メイトに組み敷かれ、今にも殺されようとしている場面だった。

「やだ! やだあああああ!!」

 頭が真っ白になって立ち尽くしている中、悲鳴にも似たその声が真っ直ぐに真冬の耳に届いた。

もう分かっていた。何をすればいいのか。迷う必要はなかった。自分のやるべきことは、一つしかな

いのだから。

 やっと会えたという気持ちと、助けなくてはという気持ちが交錯する。駆け寄ったところで間に合わ

ないのは目に見えていた。真冬は素早く拳銃を構え、正確に照準を合わせず、ただ銃口を相手の

男に向けて、撃った。



  鼓膜を大きく震わせるパン、という火薬音が響き、銃口から小さな火炎が伸びた。反動で手が跳ね

上がり、痺れが肩まで伝わってくる。

 その銃の向こうで、彼女を殺そうとしていたクラスメイトのの身体が、弾かれたようにくるりと半回転

した。そのままの勢いで仰向けに倒れ、それきり動かなくなった。



 真冬は銃を構えたまま、しばらくその場から動かなかった。自分の荒い呼吸と、不気味なくらい大き

く響く心臓の鼓動だけを感じていた。

 あいつは、動かない。弾が当たったんだ。俺の撃った銃が、当ったんだ。あいつは死んだ。彼女は

生きている。助かったんだ。

 当たり前の事実を、一つずつゆっくりと、確認するように頭の中で反芻していた。真冬は銃を下ろし、

ゆっくりと彼女に近づいていった。ずっと会いたかった――捜していた、相手に。



「おい、だい――」

「来ないで!」

 彼女は差し伸べられた真冬の手を払いのけ、逃げるように後ずさった。恐怖と混乱が入り混じった

その瞳が、まるで汚いものを見るかのような目で、真冬を見据えていた。



 ついさっき、自分を殺そうとしていた相手を見ていた時と、同じ目で。



 真冬は、捜し人である彼女に思いを寄せていた。彼女との関係は決して悪いものではなかったし、

プログラムという特殊な環境でも積極的に殺し合いを行う人物ではないと思っていた。出会う事が

できたら、話し合う事ができる。そう信じ、疑っていなかった。

 だけれどそれは所詮、自分だけの考えの話だ。自分の考えどおりの事を相手が思っているとか、

そうそう都合のいい話はない。自分が相手を信じているから、自然とその逆も起こり得るという事は

必ずあるわけではないのだから。



 真冬は彼女を信じていた。彼女は、真冬の事を信じきることが出来なかった。

 たった、それだけの話だ。



 哀しみと喪失に引き裂かれた心の隙間で、ふっと場違いな思考が割り込んだ。自分はこれからどう

すればいいんだろう。何をしていけばいいんだろう。彼女に会うために、生き延びてきた。彼女に会っ

て伝えたい事があるから、人を殺した。それらは全て、無駄だったのか?

 がしゃっ、と音を立てて、真冬の手から拳銃が零れ落ちた。彼女は荷物を持って慌てて走り去って

行ったが、後を追う気にもならなかった。



 ――追いかけなくていいのか。好きだった子を。


 ――知らない。もう、どうでもいい。どうにでもなってくれ。



 真冬はあの時、自分の中でそんな声を聞いたような気がした。きっと多重人格者になると、ああいう

気分になるのだろうか。人格の違う二人の自分が、頭の中で意見を交わしているようだった。

 それからほどなくして真冬は、彼女との再会を果たす事になる。

 物言わぬ骸となった、彼女との再会を。



 罪悪感。自己嫌悪。喪失感。自分が抱えきれる感情の容量を遥かに超えた暗い感情が、真冬の心

に圧し掛かってきた。

 何であの時、追わなかったんだ。無理にでも追って、引き止めて――殴られようが罵られようが、

何をされても良かったから、伝えるべきだったんだ。

 彼女に好きだと伝えたかった。彼女を守りたかった。ただ、それだけだったのに。



 プログラムで優勝することなく命を落とし、そして幽霊としてこの地に留まる事になった真冬は、月日

が経つにつれ、何故自分がこうしてこの場所にいるのか――その理由に、確信を持つ事になる。

 自分は、誰かを守りたいんだ。あの時、彼女にしてやれなかった事を――自分ができなかった事を、

誰かにしてやりたい。だから幽霊になってまで、自分はここにいるのだろう。



 もう取り返す事のできない過去の出来事が、真冬を縛る。苦しみも痛みも辛さも忘れて、他の皆と

同じように死ねる事ができれば、そのほうが楽だったのかもしれない。

 それをさせなかったのは、自分自身だ。無力さに嘆いた自分の想いが、今の自分を作っている。






 しかし――真冬は今もまた、生前と同じ、いや、それよりも厄介な無力さを感じていた。

 目の前の少女、村崎薫と意思の疎通が成立したとき、真冬は”今度はきっと、大丈夫だ”と思って

いた。生前のプログラムではできなかった事。後悔したまま、終わってしまった事。

 あの時は助けてやれなかった。何もしてあげる事が、できなかった。



 けれど、今は違う。今は誰かを――薫を助けてやることができる。

 そう、思っていたのに。



 真冬は薫に気付かれないよう、ゆっくりと手を伸ばした。彼女の背中に触れるか触れないかの

距離まで近づき、やや躊躇いを見せて――そのまま、手を進めた。真冬の掌が薫の背中に触れ、

そのまま薫の身体へと入っていく。手品のような、幻のような光景。

 真冬は手を引き抜いて、悲痛な面持ちで自分の掌を見つめた。何をやっても、どう足掻いても、

自分は薫に――誰かに触れる事はできない。存在を知覚されないという利点はあるが、真冬の

やろうとしている事から考えれば、これはあまりにも大きすぎる欠点だった。



 渡良瀬道流という少年が羨ましかった。自分に彼と同じくらいの力があったら、どんなに良かっ

ただろう。彼のような力を持ってさえいれば、こんな悩みに苦しむ事はないのに。いや、そもそも

幽霊にならずに済んだかもしれない。

 道流と同じじゃなくてもいい。せめて、触れる事ができれば。

 真冬は、一番近くにいる少女との間に、決して埋まる事のない大きな距離を感じていた。

 ふと視線を薫に移すと、彼女がもの思わしげな顔で自分の事を見ていた。長い間黙っていたか

ら、何かあったのかと心配させてしまったのだろうか。



『何心配そうな顔をしているんだよ。ここで俺が話しかけてお前がそれに返答したら、そこの渡良瀬

って奴に怪しまれるだろう』

 それを聞いた薫は、今度は憮然とした表情を浮かべた。いくらなんでも、そんなヘマはしない、と

でも言いたげだ。

『何かあったら、ちゃんとお前に話すさ。――まあ今は特にやる事もないし、ちょっと周りの様子を

見てくるよ』

 真冬はそう言い残して、薫たちのもとから離れていった。薫が何か言いたげな顔をしていたが、

それは見なかった事にした。今は、あの場所にいないほうがいい。今は一人になって、気持ちを

落ち着かせたほうがいい。

 でないと、自分の心がどんどん醜くなっていくような気がする。



 ――幽霊にも心なんて存在するのか?

 そんな漠然とした事を思いながら、真冬は一人、森の中を歩いていた。周りの様子を見てくると

言ったが、それほど注意深く周囲を見てはいなかった。



 あいつが――渡良瀬道流がいれば、自分は必要ないんじゃないか?

 あいつがいれば、少なくとも自分といるよりは、薫の命は保障される。

 俺が、薫と一緒にいる理由は、ないんじゃないか?



 考えたくもない事が次々と浮かび上がってくる。考えてどうする。考えてどうなる? 自分が無力

だっていうことは、自分が一番よく分かっているのに。

 何で俺は、死んでまで、こんな想いを――。



 その時、非嘆に暮れる真冬の視界の隅で何かが動いた。それは猫などの小動物ではなく、紛れ

もない人間だった。顔が傷だらけで銃らしきものは持っていないが、その人物が進んでいる先には

薫たちがいる。このままいけば、両者は鉢合わせになってしまうだろう。



 自分がいなくてもいいのでは。そう思いながらも、真冬の行動は迅速だった。自分が出せる限り

の速さで来た道を引き返しながら、大声を上げて、薫に敵が近づいている事を知らせる。

 自分がどこまで必要とされているのかは分からない。もしもの時に、守ってやることはできない

かもしれない。



 けれどそれは、彼女を見捨ててもいいという理由には、ならなかった。




【残り15人】




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