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 人間は緊急時に陥ったとき、思考が停止すると言われている。

 そしてその次に起きるアクションは、複数の思考が同時に頭の中に展開されるというものだ。

何らかの会場で沸き起こる拍手のように、一つ一つの小さな思考が大きな波となって降り注ぐ。

 こういった緊急時にこそ落ち着くべきだとよく言われているが、実際はなかなか難しい。同時

に展開された複数の思考に対する対処法を考え、実行しようとした結果、パニック症状が引き

起こされる。情報量が脳の許容量を超えてしまうのだ。その中で落ち着きを取り戻すと言う事

は容易ではない。

 時間の経過か、同じくらい大きな衝撃を与えることのできる出来事が有効な手段で、平常心

を見失った人間が自らの手でそれを取り戻すと言う事は、よほどの場数を踏んでいない限り

はまず不可能なことだった。




 村崎薫(女子15番) がパニックにならず、何秒かの思考の停止だけで済んだのは奇跡に

近い幸運と言えるだろう。

 つい先程の放送で告げられた友人――短い間だったが、行動を共にしていた佐伯法子

(女子6番 の突然の死。そして突如目の前に現れた、ここにいるはずのない人間、担当

教官の三千院零司。平常時でも危ういのに、プログラムで磨り減らされた彼女の精神がこれ

らの事実を同時に受け入れられるはずがなかった。

 薫が自分を見失わなかったのは、深山真冬のおかげだった。彼は命の危機に晒されると

いう事がないので、この場にいる誰よりも客観的な判断ができる。彼は零司に気づいた時

から、薫に積極的に話しかけていた。




『薫、迂闊に動こうとするな。逃げたいという気持ちも分かるが――相手が担当教官である

以上、下手な行動に移るのはまずい』

「うん、分かってる。というか、何かもういっぱいいっぱいでどうしたらいいのか分からないん

だけど」

『この状況で落ち着けって言うほうが無理な注文だからな……とにかく逃げたり攻撃に出た

り、こちらから動作を仕掛けることはなるべく避けるんだ。俺もそれほど詳しくはないが、

担当教官はプログラムを円滑に進行させることが第一なはず。理由もなしに生徒を殺しに

直接会いに来るとは思えない。あいつがここに来たのは、何かの理由があるはずなんだ』

 とはいえそれは、何の根拠もないただの憶測だった。けれども真冬は、担当教官がこの

場に来るという事は直接会って行う必要がある事――たとえば会話だとか、何かを渡す、

という事をしにきたのではないかという予感があった。




 それよりも当面の間で重要なのは、薫の心を不安定なものにさせないということだ。薫が

パニックになって逃げようとしたり歯向かおうとしたら、零司は何の躊躇もなく薫を殺すだろ

う。先程の、佐伯法子のように。

 この場にいない、喋ることしかできない自分に出来る事。薫に話しかけ、彼女の気持ちを

少しでも安心させてやることくらいしかできない。そんな事しか出来ない自分が歯痒かった

が、それは逆に、真冬ではないと出来ない事だった。




「じゃあとにかく、何もしなければいいんだよね?」

『気に入らないかもしれないけど、それが一番安全だと思う』

「それなら何で、法子ちゃんが……」

そこは真冬も気になっている点だった。零司が法子を殺さなければいけなかった理由が

見出せない。薫たちを殺すのが目的ならば有無を言わさず攻撃をしてくるはずだし、殺害

以外の目的ならば、法子を殺す理由がない。法子だけを殺さなければいけない理由でも

あったのだろうか。

 再び小声で真冬に話しかけようとした時、ヒュンと鋭い音がして、薫の視界に銀色のもの

が掠めた。

 薫の足元――右足にぴったりと寄り添うように、法子の体に刺さっている物と同じスロー

イングナイフが生えていた。




「動くな」

 スローイングナイフを投げた手をそのままに、零司がそれだけ言った。たった一言の短

い言葉だったが、聞いた者の耳ではなく脳や心に訴えかけるような支配力のある声だった。

 その一言で薫の足が、手が、まるで釘で固定されたかのように動かなくなる。息を吸う、

つばを飲み込むという何気ない動作すら、簡単には出来なくなっていた。

「俺は貴様と戦いに来たわけじゃない」

 薫はその言葉が、自分ではなくこの場にいるもう一人――渡良瀬道流に向けているもの

だという事に気付いた。ゆっくりと道流に目を向けると、彼は羅刹の如き形相で零司を睨み

つけている。




「用があるのは、村崎薫の方だ。ちょっと話したいことがあってこうしてやってきたわけだが

……貴様がいると邪魔なんだ。しばらく席を外してもらおうか」

「俺がその話に”はいそうですか”って答えるとでも思ってんのか?」

 道流はこめかみに血管を浮かべ、ただ静かに笑みを浮かべていた。道流のことをよく知

っている人間ならば、その笑みが『心のそこからブン殴りたい奴』を前にした時にしか出ない

こと、つまり――道流が完全にキレている証拠だということに気付き、戦慄していただろう。




「答えなければ先程の女のように、村崎薫も殺すだけだ」

 道流が零司の意図に気付き、先程とは別のベクトルの怒りに表情を歪ませた。

 考えてみれば当たり前のことだった。プログラムを行うにあたって生徒一人ひとりを調査し、

情報を入手する事。そしてそれはもちろん道流も例外ではなく、彼の身に過去に起きた出来

事、すなわち妹を殺害された事件、そこから生み出されることになった、現在の道流を構成

している行動理念を零司たちが調べ上げていたとしても、なんの不思議もない。




 同時に真冬は、零司のこの言葉で何故佐伯法子が殺される必要があったのかを理解した。

零司は抑止力の一つとして、法子を殺して見せたのだ。『先程の女のように、村崎薫も殺すだ

けだ』という言葉。法子を殺すことでその言葉に説得力を与え、それによって道流が自分に手

出しを出来なくするために。

 それだけの――たったそれだけのために、法子は死ななければいけなかったのか。真冬は

彼女の事をほとんど何も知らなかったが、自らの利益のために他人の命までも利用する零司

に激しい怒りと嫌悪感を抱いた。




「てっめえ……ヘドが出そうなくらい、最ッ低のクズ野郎だな」

「正直な話、貴様がどこまで強いのか興味はある。が、今は残念なことにプログラム中なんだ。

本来ならばこうして俺が貴様らに直接干渉することは禁止されているんだが……今回は事情

が事情だ」

 零司は両手をスーツのポケットに入れ、悠然とした態度で薫に歩み寄っていく。道流の事は

まるで意に介さず、一瞥もくれずにその脇を通り過ぎた。

 零司が行った手段は、渡良瀬道流という人間を押さえつける方法としてこれ以上ないくらい

に有効なものだった。 零司がもし、『命が惜しければ動くな』と道流に言っていたら、道流は

そんな言葉など聞く耳持たず、自分の身を投げ出して零司を殴りにいっていただろう。

 それを知っていたからこそ、零司は薫を間接的に人質に取り、道流の事を無力化した。




「みっちゃん!」

 彼に向けて言葉を発そうとしたが、道流と目が合い、開きかかった口を無理矢理に引き結

んだ。

 馬鹿、いいから黙ってろ。俺に構うな。

 とでも言いたげな目をしていた。

 この緊急事態に何を――と思った。この男を倒せば、プログラムが中止になって生き残っ

ている皆は助かるかもしれない。道流なら零司を倒せるかもしれないのに、何故それを行お

うとしないのか。こんなチャンス、もう二度とないのに。

 ケンカに関してはズバ抜けた実力を持っていた道流だが、劣勢になった場面が全く無いと

いうわけではない。そういった状況に陥る時は、決まって彼の周りに誰かがいるときだった。

 薫や琴乃宮涼音、彼女の双子の姉である赤音、他にも桐島潤や鏑木大悟、昔からの付き

合いの黛真理など、道流の交友関係は意外にも広い。ケンカ相手がその友人たちに危害を

加えようとした時に、道流は向こう見ずな ケンカをしてしまって怪我をする事が多かった。




 何で、いつもいつも――。

 他人の事ばかり心配して、自分の事なんか、完璧に無視して……いつも誰かの心配ばっか、

してないでよ。

 声を張り上げて、文句を言ってやりたかった。私の事なんか構うな、と。

 けれど言えなかった。薫は道流の過去を知っている。そして、今自分の隣にいる、真冬がどう

いう経緯で幽霊になったのかも知っている。そんな二人の前で、自身を軽く扱うような言葉は、

とても口にできない。



「……薫に何かしたら、すぐにてめえをぶっ殺す」

 道流はしばらく考え込んでいたが、やがて諦めたように呟いた。怒りの対象が目の前にいると

いうのに発散できないという状況。道流は怒りを、そして自分自身を必死に押さえ込んでいた。

語気を震わせて荒々しい言葉を吐く道流の目には、行き場を失って体の内に荒れ狂っている、

激しい怒りが満ちている。
 
 道流は踵を返し、一人森の中へと消えていった。一時的とはいえ薫と零司を二人きりにする

のは、彼にとって苦渋の選択だっただろう。






「さて……邪魔者はいなくなった事だし、本題に入らせてもらおうか」

 マフィアを連想させるような黒いサングラスを指先で上げ、零司は薫の眼前に立った。薫は

無意識のうちに何歩か後退りをし、零司との距離を一定に保とうとしている。

「逃げようとしても無駄だ。貴様が逃げるよりも早く殺せるからな」

 言って零司はぐい、とスーツをはだけてみせる。そこには大小様々な大きさ形をしたナイフ

が収まっていた。先程のスローイングナイフからバタフライナイフ、果ては力を入れれば人間

の手など簡単に切断できそうなアーミーナイフまで。

「何、そんなに不安になることは無い。貴様が俺の質問に嘘偽り無く答えれば、こいつらも出

番がなくて済む」

 零司の声は、冷たい。抑揚が無く、物事をそのまま話しているような口調。それなのに、声

に孕まれている力、威圧感は有無を言わさないものがあった。冷たく静かな恫喝、とでも言う

のだろうか。




「幽霊が見える……というのは本当か?」

 ストレートな物言いに、薫の身体がびくっ、と震えた。肯定こそはしていないものの、薫の顔

には困惑の色がありありと浮かんでいる。

 三千院零司。プログラムの担当教官であることから進行状況くらいは当然把握しているだろう

と思っていたが、どうやって真冬の事を知ったのかが分からない。まさか、自分たちの動向は全

て政府に筒抜けになっているのだろうか。

「変な動きをしたり、嘘をついていると分かり次第に殺す。簡単なことだ、事実をそのまま口に

すればいい」



 ――言ったって、どうせ信じてくれないじゃん。

 事実を事実のまま口にしても、それを判断するのは零司だ。真冬との出会いをいくら詳しく

話しても、彼に信じてもらえなければ自分は助からない。要するに薫は、零司の気に入るよう

な、彼が納得するような回答をするしかなかった。

 薫は真冬を見ようとして、動かしかけた視線を無理矢理零司に合わせた。面と向かって話を

しているという事は一挙一動が見張られているという事になる。ここで下手に怪しいと思われ

る動きをしたら、何をされるか分からない。

 喋ることも、目を合わせることも出来ない。真冬との接触を封じられた薫は、零司の問いに

対する返答に思考を巡らせた。しかし最も正解に近い返答を考えれば考えるほど、考えはま

とまらなくなっていく。



 と、その時だった。



『薫、今から俺が言う事を、そのまま口にするんだ』




 真冬の声が、聞こえた。

 自分の目に映らなくても、すぐ傍にいてくれるのが分かる。触れることは出来ないけれど自分

の肩に手を置いて、大丈夫だと伝えてくれているのが分かる。

 自分は一人じゃない。すぐ傍にいてくれる人がいる。

 止まらなかった心の震えが、少しずつ治まっていった。




「……信じてもらえるかどうか分からないですけれど、見えます」

「フン……なるほどね。俺たちは貴様ら一人ひとりの情報を事前に調べ上げているが、貴様の

情報の中には幽霊が見えるだとか霊感に関することは書いていなかったがな」

「だって、誰にも言っていませんから。言ってもどうせ、信じてもらえないし」

「貴様が今見ている幽霊にはいつ、どこで出会った? そいつの素性は?」

「プログラムが始まってすぐ、ホテルの入り口のあたりで……。素性は詳しく知りませんけれど、

昔にここであったプログラムで死んだって言っていました」




 薫はただ淡々と、真冬の口から紡がれる言葉を口に出す。自然を装い、命が惜しいと言う事

をアピールするため、零司に媚びるよう敬語を使って。

 零司は顔に感情を見せず、時折腕組みをしたり、小さく頷くなどして薫の話を聞いていた。

何の反応も見せない事が逆に不安になり、薫は手だけでなく自分の背中にまで汗を感じるよう

になっていった。




 怖い。怖くないわけがない。真冬がいるとはいえ、この場面を自分の力でどうにか乗り切るだ

なんて。

 できれば逃げてしまいたかった。全てを捨て、殺されるかもしれないという事からも目を背け

て、この場からいなくなってしまいたかった。

 それでも薫がそれをしなかったのは、プログラムに立ち向かっていこうという決意と覚悟、

そしてこの男にはみっともない姿を見せたくないという、一種の悪あがきのような薫の意地だ

った。



「まあ、その辺の情報は本部に戻ってから調べとするか。むしろ今問題なのは、貴様が幽霊

と共に行動をしているというところだ」

 薫に向けて、というよりは、自分自身に言い聞かせるかのように話す零司。

「あ、あの……何で私が、幽霊が見えるって分かったんですか?」

「それは貴様が知り得なくてもいい事だ」

 真冬は内心で舌打ちをした。上手くいけば、零司たち政府がプログラム中にどうやって自分

たちの動向を窺っているのかを知ることができたかもしれないのに。追求したい気持ちはあっ

たが、そうすると薫の命にも関わりかねなくなってくるので、深入りはしないことにした。



「幽霊だとか魂魄だとか死後の世界だとか輪廻転生だとかそういったものは信じていない。

だがしかし――貴様は別だ。この場を逃れようと単に嘘をついているだけ、とは思えん。しかし

興味があったのでこうやって直接出向いてはみたが、これといった収穫は望めんか……」

 一方の零司は薫の事など歯牙にもかけていない。幽霊がいるかどうか、その真偽の判断が

最優先といった様子だった。

「それで? その幽霊は、憑依することによって対象者の身体能力を強化したり、物体を霊力

で動かしたり、俺を呪い殺したりとかはできるのか?」

「そういうのは、特に……。意識だけがそこにあるような感じ、らしいですけど」



 真冬も最初は、テレビや漫画に登場するような幽霊が持つ超能力めいた力が自分にもある

のではないかと期待したが、そんな都合のいい話がそうあるはずもなく、そういった異能の力

は持ち合わせていなかった。それでも相手の霊感によっては金縛りなどを行ったときに効果

が現れたりもするのだが、零司にはその霊感がないようだし、何かのきっかけで自分に力が

目覚めるというお約束な展開もない。憎い相手を呪い殺せるのあればどれだけ良かっただろ

う。そうすれば今ここで、零司を呪い殺しているというのに。



 それを聞いた零司は心の底から薫を馬鹿にしたように、「ハッ」と意地悪く笑った。

「なんだ、つまらん。それでは大したイレギュラーも起こり得ないな。もしかしたらプログラムに

番狂わせがあるかと思ったが、とんだ買い被りだ」

 言い終わると同時に、零司の右手の袖口からスローイングナイフがすっ、と出てきて、彼の

手に収まった。

「貴様の話が本当かどうかも分からないが……まあ、そうだな。万全を期すためだ。大事を

とって殺しておくか」

 念のために傘でも持っていこうかな、というくらいの何でもない日常的な調子で、零司はそん

な台詞を口にした。抵抗をしてもしなくても殺すつもりだったんじゃんか、畜生。



 零司との間には三メートルほどの距離があったが、そんなものはあってもなくても同じような

ものだった。零司がこの距離からの攻撃を外すとは思えないし、自分が何かやるよりも先に、

零司が行動に移っているだろう。

 思い知る。もしも零司を倒すつもりだったのなら、先程道流と一緒にいた時に仕掛けていな

ければいけなかった。咄嗟の事だったとはいえ、あれが唯一で、最大にして最後のチャンス

だったのかもしれない。



 ベクトルこそ違えど、渡良瀬道流や、真神野威(男子15番) と同じタイプ。自分がやろうと

決めた事は、躊躇なく行えてしまう種類の人間だ。

 それはとても強くて、とても頼りになって、とても怖い人間。

 自分を貫ける人間は――それだけで、恐怖すら与えることができる。




「担当教官の貴方が、こうやってプログラムに直接干渉するのはよくないんじゃないですか?

私を殺したことで、貴方にとって都合が悪いことが起きるかもしれないじゃないですか」

「ほう、意外と考えてモノが言えるようだな。確かに、進行中のプログラムの中で生徒に接触

を取る――殺すとなれば厳重注意では済まされん。だが今回は、特例措置の許可を得れる

とも限らん事態だ。それに渡良瀬や真神野ならいざ知らず、貴様はここで排除してもさほど

影響はないだろうしな」

 零司から薫を殺す気をなくさせようと奮闘している真冬だったが、彼の努力も空しく、零司

の意思に揺らぎは見られない。

 次第に焦りが高まってくる一方で、真冬は零司が話した、『渡良瀬や真神野ならいざ知ら

ず――』という言葉が気にかかっていた。


 
 名前が挙がった二人に共通していることといえば、このプログラムの優勝候補という点だ

が――その裏には、二人を殺すことができない、何か深い理由があるような気がした。



 零司は、本当に自分を殺すつもりなのだろうか。彼は先程、担当教官がこういった形で

プログラムに干渉するのは禁止されていると言った。一度動き出したプログラムへの第三

者の干渉は、戦闘実験の意味合いそのものを危うくさせてしまうからなのだろうか。だと

すれば、自分を動揺させるためのハッタリとも――。




 と、そこまで考えて、緊張に耐え切れなくなった薫の視線がほんの一瞬だけ、明後日の

方向に向けられた。その僅かな隙を突くように、零司はスローイングナイフを持った手を

軽く振りかぶった。その切っ先が狙っているのは喉から顎にかけて。何の容赦もない、

脅しも何もない、正真正銘の急所狙いの一撃だった。
 
 見えてはいる。ぎりぎり見えてはいるのだが――見えていたところで、どうすることもでき

ない。

 横に動いてよければいいという事は分かるのだが、身体がそれを実行するより早く、自分

の喉からナイフが生えているだろう。いくら運動能力に優れているとはいえ、戦闘技術を磨

いたプロの前ではアマチュアにすらなりきれない。




 薫、と悲痛な声色の叫びが聞こえてきた。

 真冬くんだ。何を叫んでいるんだろう。ああ、そうか。私が死ぬから?




 死ぬ。

 死ぬ?

 私、が?




 どこか宙に浮いていた薫の意識は、地面が爆発したと同時に聞こえてきた衝撃音に

よって一気に現実に引き戻された。




「ひゃああっ!?」

 正しく言えば地面は爆発などしていない。そうなったとまで錯覚させるほどの爆発音は、

どこからともなく投げ込まれてきた一本の木が、地面に落下した時に生じたものだった。

 投げ込まれた木は太くはないが、決して細いものでもない。成人男性の胴回りくらいは

ありそうな太さの木が、まるで砲弾のような勢いで、薫と零司のいる場所に投げ込まれて

きたのだ。

「え、え、えええっ!! ななな、何これ!?」

 薫は驚きと共に周囲を見回し、零司もスローイングナイフを引いて木が飛来してきた

方向に目を配る。




「薫に何かしたらてめえをぶっ殺すって言ったよなぁ? 担当教官さんよぉ」




 渡良瀬道流が――先程、席を外すように零司から強要されて姿を消した渡良瀬道流が、

まるで当然の事のようにそこに立っていた。

 薫はがくりと肩の力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。

 それは恐怖ではなく――安心だった。

 道流が来てくれたという事への、これ以上ないくらいの安心感だった。

 道流は唇の端を吊り上げ、ニイッ、と獰猛な笑みを浮かべる。獲物を見つけた野獣――

そんな表現がぴったりくる表情だった。




 対する零司は、表情にこそ変化がないものの、身に纏う空気ががらっ、と変わっていた。

「席を外してもらおうかと頼んだはずだが……」

「俺こそ薫に何かしたらてめえをぶっ殺すって言っただろうがよ。てめえの事棚に上げて意見

を主張してんじゃねーよ」

 道流は右手の指を人差し指から順番に握り締め、握り拳を作り出す。今すぐお前をぶん殴る

という意思表現であり、そこから生み出されるパンチの威力を知っている薫は、道流なら零司を

倒してくれるのでは、という希望を見出していた。



 零司は投げ槍のように地面に突き刺さっている木を尻目に見て、「貴様の相手をしたいのは

山々だが」と言う。

「残念ながら、今の俺では貴様と戦うことは出来んな。どうしてもというのなら、プログラムで優

勝して、再び俺の前に姿を見せた時にしてくれ」

「ざけんな。俺は今ここでてめえをぶん殴りたいんだ。一発じゃきかねえ、百発殴らせろ。てめえ

が泣いても殴るのは止めねえからな」

「村崎なら戦おうが殺そうができるのだが――渡良瀬道流、貴様が相手となると話が別だ。ここ

で貴様を失うと、プログラム以外のところでも影響が出るのでね」

「あぁ? 何言ってんだ、てめえ」

「プログラムが舞台、壇上であり、貴様たちが役者、そして俺が監督であるとすれば、もちろん

スポンサーも必要になってくるだろう? それと同じような話だ」

 道流も薫も決して鈍感な方ではないが、その言葉の意味を理解することが出来なかった。

そもそも、プログラムの舞台裏で何が行われているのか分からない二人にとっては、そこに辿り

着く事すら難しいのだが。




『…………』

 だがしかし、真冬は零司の言った台詞を――そこに隠されている意味に気付いたのか、口を

つぐみ、険しい表情を浮かべている。

「何言ってんのか分かんねえが、余裕ぶっこけるのはそこまでだぜ、担当教官さんよぉ!」

 声と共に、道流は体の重心をわずかに前に傾け――直後に、直立したままの体勢からとは

思えないほどのスタートダッシュを見せて零司に肉薄した。
 
 これにはさすがに零司も顔色を変えたが、慌てることなく道流の間合いから離れ、ごうっ、と

いう空気を裂く音を放つ拳を悠々と避ける。そして走るというよりは細かいステップを何度も繰り

返すという移動方法で、道流と薫がいる場所から大きく距離をとった。




「そのやる気を俺ではなく、他の生徒に向けてくれたら嬉しいのだがな」

 どうやら零司は本当に道流とやり合うつもりはないらしく、ナイフを手に持たないどころか、両手

をポケットに入れていた。

 あまりにも道流を軽んじた――というよりももはや侮辱的であるその姿に、道流は双眸を吊り上

げ低く唸り声を上げる。

「知りたいことも知ることが出来た。俺はそろそろ帰らせてもらうとする。本部に残してきた部下たち

がどの程度仕事をこなしているか、心配なのでね」

「ざけんな! あんだけ好き勝手やっておいて、このまま黙ってただで帰れると思ってんじゃねえぞ!」

「さっきも言っただろう、渡良瀬道流。俺と戦いたいのなら、プログラムが終わってからにしてやると。

貴様の力ならばプログラムを勝ち抜くことも簡単だろうに。それとも何か、優勝したくない――人を殺

したくない理由でもあるのか?」

「――――っ!!」

「フン、こういった挑発に乗るあたりはまだ子供だな」

 そして零司は最後に一度だけ、薫に視線を向けた。



「村崎薫……ノーマークと言うわけではなかったが、期待するほどのものでもない、か……」

 誰にも聞こえないように、事実を確認するような口調でそう呟き――三千院零司は、その場

から姿を消した。




 誰のことも考えず、誰のことも省みず、ただ自分の疑問のために、自分が抱いた疑問を解決

するためにプログラムの只中へ出向いた担当教官は、二人にとって最悪とも言える後味の悪さ

だけを残していった。



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