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 琴乃宮涼音(女子4番)が浅い眠りから目を覚ました時、何だか少しだけ気持ちと身体が軽かった。

 思い当たる理由は一つしかなかった。先程見た夢――恋人の桐島潤(男子6番)と一緒にいる夢

を見たからなのだろう。

 夏の強い日差しが、頭上を覆っている葉を宝石のように輝かせていた。光の強さに惹かれるように

ゆっくりと身体を起こす。暖かな空気が肌に触れ、澄んだ青色の空が梢の間から見えた。

 季節とは律儀なものだ。自分の置かれている環境がどのようなものになってしまっても、変わらない

一年を自分たちのところへ運んできてくれる。訪れ、そして過ぎ去っていく季節。そうやって月日は巡

っていく。巡っていくたび、過ごしていった記憶はどんどん薄れていってしまう。

 

 それでも、忘れられずに色濃く残っている記憶もある。彼と出会った時の事を、涼音は今でもはっ

きりと覚えていた。

 夏が始まったばかりのあの時。ちょうど、今と同じ季節だったあの時の事を。

 

 一年か、と小さく呟いた。長いのか、それとも短いのかよく分からない時間だった。

 デイバッグを手に持ち、眼鏡についていた汚れを拭きながらその場を後にした。モーニングスターに

金属バット、といった武器が入っているデイバッグはとてつもない重さになっており、女性である涼音

にとっては歩くだけでも一苦労だった。

 

 よろよろと歩き続けたところで、川沿いの遊歩道らしき道に入った。川縁に生えている草はその生

命力を誇示するかのように、天に向かって力強く伸びている。それが川の流れを見るのを少しだけ

遮っていた。

 涼音が住んでいた所には、こんなに綺麗な川はなかった。大抵はコンクリートで舗装されているし、

酷い所だと濁っていて生命のいる気配すら感じられない。

 一度、潤と一緒に街から離れた公園に行ったことがあるが、あそこで見た川は綺麗だったけれど

人工的なものだったので、今自分が見ている川とはちょっと違う。

 川に限らず、海にしても山にしても空にしても、自然のものは良いなと思う。

 綺麗だし変化に富んでいるし、そして何より――自分が内に秘めているものが、自然に対して牙を

向けることはない。だから、安心して見ている事ができる。

 対岸には大きな木々が鬱蒼と生い茂り、森を作っていた。緑がとても濃く、緑色の雲がいくつも浮か

んでいるみたいだった。

 

 潤も自然が好きだった。今、自分が見ているものと同じものは二度と見られないから、それを絵に

して残せれば嬉しいと言っていた。

 その時の景色を残すのであれば写真を撮ればいいのにと思っていた時期もある。けれど潤の描く

絵を見ていくうちに、そんな考えは次第に薄れていった。

 写真は自分の見たものを正確に、鮮明に残す。まるでその場面を切り取ったかのように。

 絵はその点だけ見ると写真に劣るかもしれない。けれど絵には、描き手そのものが表れる。描き方

から色の塗り方まで、描いた人の持つ技術だけではなく心や考え方が込められている。写真のように

正確ではないが、同じ景色を10人の人が描いたら、全く同じ絵は出来上がらないだろう。

 

 もちろん、潤が描く絵にも、それはある。

 涼音と潤が付き合う事になったきっかけも、絵からだった。

 潤のこと自体は小学校の頃から知っていた。彼は小学校を卒業するまでクラスの男子では一番背

が低く、女の子のような顔をしていた。運動が苦手で休み時間は教室で友達と喋っていて、ケンカが

あった教室の隅で目を背けていた。それでも、自分の意見はしっかりと相手に伝える事ができる人だ

った。

 

 

 

 中学二年生の、夏休みを間近に控えたある日、涼音は美術室へ足を向けていた。夏休みの宿題と

して美術の時間に出た課題も含まれていたので、その道具を持ち帰るために美術室へ行こうとして

いた。

 扉を開けたときに、がらんとした美術室に一人でいたのが潤だった。彼は窓の外から外の景色を

眺め、しばらくすると手元にあるメモ帳のようなものにせわしない動きで何かを書いていた。

「琴乃宮さん?」

 そこでようやく、潤は涼音が部屋に入ってきた事に気付いた。

「珍しいね、放課後にここに来るなんて」

「桐島くんって、美術部だっけ」

「うん。知らなかった?」

 無言で頷く涼音。潤は笑いながら「まあそうだよね」と応える。

 潤の前髪は男子生徒にしては伸びていて、俯くと彼の目が見えなかった。なのでなかなか表情が

読み取れずにどう接して良いのか決めあぐねていたら、潤が「これ、結構大変なんだ」と言って顔を

上げた。

 

「窓の外を見てその時の景色を憶えて、それをできるだけ正確に描こうとしているんだけど、なかなか

上手くいかないんだ。正確に描こうとすると細かい部分を忘れちゃって描けなくなるし、かといって憶

えているうちに描こうとすると、描く手が早くなって雑になっちゃうし」

 潤が持っていたのはメモ帳ではなく、小さなスケッチブックだった。そこには、窓の外から見える景

色が描かれていた。見やすくて、そこに何があるのかはっきりと分かる絵だった。

「それ、何かの役に立つの?」

「自分の記憶にあるものを正確に描けたらいいなと思って」

「……写真を撮って、それを見て描けばいいのに」

「そういう事は言わないでよ」

 ちょっと拗ねたような感じで潤は言った。けれど目は悪戯っぽく笑っており、とても綺麗な黒い瞳を

していた。

 

 その瞳を見たときから、涼音は潤に惹かれはじめていた。

 何かを作り出す、生み出す事の出来る人の瞳。自分にはないものを持つ、正反対の人間だから

こそ、まるで磁石のように惹かれあってしまったのだろう。

 

「文化祭に出す作品も描かなくちゃいけないし、これから大変だよ」

「文化祭って11月だよね。今から描くの?」

「うん。早めに完成させておきたいし、それに他にやる事がいろいろ」

「準備とか?」

「それもあるけど、来年は俺が部長かもしれないんだ。だから、やる事が結構多くて」

 部活に所属している生徒の中には、部内での立ち位置が変わってきているものも多かった。運動

部では夏季大会で早々に敗北し、三年生が引退してしまったところもいくつかある。

 

「桐島くんが部長か……」

 こう言っては失礼だが、あまり適任ではない気がする。潤は人前でたくさん喋るタイプではない。

「嫌だって言ってるんだけど、何だか俺になりそうなんだよね。俺が一番はっきり喋れるからって。

自分ではそうは思えないんだけど」

「自分が思っていることと他人が思っていることが違うのは、よくある事だと思うけど」

「……うん、まあそうだよね」

 頷いたものの、潤は少し不服のようだった。

「そういえば琴乃宮さんの方こそ、何か用事があったんじゃない?」

 潤に言われてようやく、自分がここに美術の道具を取りにきたのだということを思い出した。

 涼音は絵の具や筆などが入ったケースを手に取り、潤の横を通って美術室を出て行こうとして、

その直前で足を止めた。

 振り返ったその先では、潤は変わらず絵を描いていた。窓の外を眺める彼の瞳に、自分の姿は

映っていない。

「桐島くん」

 潤がこちらを向いた。決して近くはない距離だったが、ここからでも彼の目がはっきりと自分を捉

えているのが分かった。

 

「また、ここに来ていい?」

 

 

 

 これを機に、涼音は美術室へ足を通わせるようになった。そしてその時には、決まって潤がいた。

 ある日は絵の描き方を教えてもらったり、ある日は他愛もない話をしたり。この頃にはもう、最初の

頃のような余所余所しさはなかった。夏休みが終わって美術の課題がなくなり、絵を教えてもらう必

要がなくなってからも、潤に会いに行っていた。

 

 彼は、自分が今まで出会った人たちとは少し違うタイプの人間だった。

 涼音の周りは村崎薫(女子15番)渡良瀬道流(男子18番)のような、長所が突出しすぎていて

短所を補っている人間が多かったが、潤は違っていた。臆病だけれど問題を何とかしようとする強い

意志を持っている。相反する二つのものが、潤の中で強くせめぎ合っているのが感じられた。

 こんな人が近くにいたんだ、と涼音は驚いた。そして彼女は、潤の強さ、弱さ、声、表情、その何も

かもにはっきりと惹かれていた。彼といるだけで、心が落ち着いた。

 初めての恋、だった。

 

 自分に芽生えた感情に気付いた時、涼音は素直に喜べなかった。自分は普通じゃない。彼とは違

う。彼を好きになっても後でつらくなるだけだ。

 そう思っていたが、日に日に募っていく潤への想いを抑える事はできなかった。この事を誰かに相

談しようとも思ったが、結局は誰にも――双子の姉である赤音にも話す事はなかった。

 文化祭が終わった後、部活の展示の後片付けをしていた潤に一緒に帰ろうと誘い――その帰り道

で、涼音は想いを打ち明けた。

 

 普段は口数の少ない涼音だが、あの時ばかりは涼音のほうがよく喋っていた。

「展示、人がたくさん来ていたね」

「うん、おかげさまで」

 後片付けが終わるのを待っていたからか、帰り道はすっかり暗くなっていた。通い慣れた道でも、

夜に通ると違った場所のように感じられる。

「桐島くんの描いた絵、みんな見ていたね」

「そう言われると恥ずかしいなぁ」

 夜になり、気温はだいぶ下がっていた。空気も先週と比べると冷えてきて、冬がもうすぐ近づいて

きているんだなと感じさせられる。

 それなのに、涼音の顔はひどく熱くなっていた。

 

「桐島くん、あの……」

 言葉を考えていたわけではない。ただ自然と、口から出ていた。

「できれば、これからも君と会いたい」

「うん、放課後に美術室に来れば俺はいるし、その時に――」

「そうじゃなくて」

 街頭に照らされた場所で、涼音は立ち止まった。

「このままで終わるのは……嫌なの」

「えっ?」

 本当はもっと、素直に気持ちを伝えたかった。けれど、それだけ言うのが精一杯だった。

 涼音は、右手を潤の手に伸ばした。二人の手が、しっかりと合わさる。

 

「……こういうこと、何だけど」

 

 俯き、目を逸らしながら呟く。顔が火照り、頬が赤くなっているのが自分でも分かった。

 この時ばかりは、潤の顔を直視する事が出来なかった。

 しばらくの沈黙の後、潤は「うん」と言って、涼音の手をぎゅっと握り締めた。突然の事に驚いた涼

音の体が、びくっと震える。

「俺の方こそ、よろしくお願いします」

 そう言って微笑む潤の顔もまた、真っ赤になっていた。

 

 

 それから今まで、涼音と潤の気持ちは一緒だった。近くにいる時もそうでない時も、お互いの事を

想っていた。彼と過ごす他愛もない毎日が、とても充実したものに感じられた。彼の幸せが、自分の

幸せでもあった。

 潤の部屋で初めて肌を重ねた時は、本当に幸せな瞬間だった。潤の声も、手も何もかもが大切で

失いたくないものだった。世界の中心が彼だと言えるくらい、涼音は潤の事が好きだった。誰かに

聞かれたとしても、はっきりとそう答えられる。

 自分がこんな風になってしまうなんて、思っていなかった。少女漫画でしか見ないような、どこか遠

い、別の世界の事のようにさえ感じられる。

 潤と付き合い始めてからの日々はとても幸せで――とても残酷なものだった。

 

 

 

 涼音は土手に腰を下ろし、ぼんやりと川を眺めている。それほど長く眠れていないのに、不思議と

目は冴えていた。他のみんなはどうしているだろう。ちゃんと眠れているのか、それとも一晩中起きて

いたのか。

 水面がゆらゆらと揺れている。川の流れは静かで穏やかだった。

 それとは逆の大きな感情の波が、涼音に押し寄せてきた。

 

何で自分はこんな人間なんだろう。他の人とは違う普通じゃないもの、病気と言ってもいいものが

あるんだろう。

 

 普通の女の子になりたかった。そうすれば、潤とも普通に付き合うことができるのに。

 暗く濁った感情が次から次へ溢れ出てきた。涼音は奥歯を噛み、自分の手をじっと見つめる。この

プログラムで、実に三人もの命を奪った両手。

 自分は、もうどうすることも出来ないほど汚れていた。この手は見えない血で赤く染まっている。どん

な事をしても、人を殺したという罪は消えはしないだろう。

 潤と手を繋ぐ事も出来ないくらい、自分の手は汚れている。

 

 出発地点を出た直後に、自分が出てくるのを待ってくれていた潤の顔が頭に蘇ってきた。彼は危険

を冒してまで自分を待ってくれていたが、涼音は潤の誘いを断った。誘いを受ける資格なんて自分に

はないし、この汚れた感情を抑えられず、誰かを手にかけてしまうのが分かりきっていたから。

 現に涼音は、衝動に身を任せて三人のクラスメイトを葬っている。

 自分は潤を裏切っている。自分を信じてくれている潤の優しさを裏切り続けている。

 自分が招いた事なのに、それを何度も悔やむ自分が酷く惨めだった。

 朝日を受け、水面が眩く輝いていた。澄んだ水の流れる音が心地よく体に響いてくる。

 潤と過ごした日々の思い出も、同じように美しく輝いていた。涼音は潤との思い出を、そのまま綺麗

なものとして留めておきたかった。

 

 仮に自分が生き残ったとしても、潤が生き残ったにしても、自分の姿はプログラムが始まる前の

日常の姿のまま、思い出として残しておいてほしかった。今の自分の姿を、潤に見せたくはない。

 それにもしもう一度潤と出会ったら、自分たちの関係や思い出など、築いてきたものが全てなくなっ

てしまうような気がした。

 本当は彼に会いたいと思いつつも、涼音はそう願うしかなかった。変わり果てた自分の姿を彼に見

せるくらいなら、会わない方がいい。それがお互いにとって一番良い選択なんだと、自分に言い聞か

せていた。

 

【残り19人】

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