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 強く握り締めた拳の中で、それほど長くない自分の爪が掌に食い込むのを感じた。その痛み

は、自分の中に流れている何かが拳に集中してくるような奇妙な、何ともいえない奇妙な感覚を

大悟に与えていた。

 左手を腰に当て、平然とした顔でこちらを見ている春日井洸。つい先程、その手でクラスメイト

を殺めたとは思えないほど冷静な面持ちを前に、大悟は奥歯を噛み締めた。

 誰が見ても、明らかに激怒していると分かる大悟の様子を見ても洸は微動だにせず、ただ沈

黙を守ってその場に佇んでいる。今、自分がするべきことは何も無いと言わんばかりに。

 対峙する二人はお互い動きを見せず、何も語ろうとしない。その場の空気とは対照的な、静か

な時間だけが過ぎていく。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。少なくとも、二人の様子を間近で見ていた桐島潤は時間

の経過がかなり遅く感じられただろう。

 洸がすっ、と右足を前に出し、ほんの少しだけ前傾姿勢になる。大悟が身構える前に、素早く

距離を詰めた洸が小太刀を振るっていた。春香の血痕がまだ残る刀身をスウェーで避け、ガラ

空きになっている洸の脇腹に右拳を叩き込む。大悟はそのまま連打を浴びせようとせず、相手

を蹴り飛ばして距離を取った。

 

「……ちょっとは目ぇ覚めたかよ」

 洸を殴った拳が、わずかな熱を帯びているのを感じた。擦り剥いた時のような熱がじんわりと

広がり、無くなっていく。

 自分の短い人生の中でこれ以上なく腹が立っているはずなのに、自分の口から出た言葉は

意外なくらいに冷静なものだった。

 

「これで懲りてないんだったら、何度でもぶん殴ってやる。お前が馬鹿な考えなくすまで何度も。

だから俺を殺すとかゲームに乗るとか、んな馬鹿げた事を言うのはやめろ!」

 大悟の怒号に、洸は殴られた脇腹を押さえながら溜息混じりに答えた。

「俺がここで殺さなくても、お前はどのみち殺される。誰かを殺すという選択を選ばない限りな」

「お前は人殺す事に何の抵抗もないってのかよ!」

「……してはいけないことをしている、という実感はある。越えてはいけない線を越えてしまったと

いうことも」

 口調自体は穏やかなものだったが、その言葉の一つ一つに含まれている感情は、はっきりと

した形で表さなくとも大悟に伝わっていた。

 その時だけの感情とか、自暴自棄になったからという短絡的な結論ではない。悩んで、考えて、

その末にようやく導き出した彼なりの結論。共にいた時間の長い大悟だからこそ分かる、洸の

静かな決意だった。

 

「だったら、どうして!」

「しつこいぞ」

 会話の隙を付き、洸は小太刀を握り直して腰だめに大悟にぶつかっていった。運動能力では

学年でもトップクラスであろう大悟でも、何とか横跳びにかわすのが精一杯だった。ワイシャツの

脇腹部分が裂け、赤い筋が滴り落ちる。

「俺は、生きて帰る。こんな所でこんな理不尽な目に遭って死ぬなんて、受け入れられるか!」

 洸にしては珍しい、直接的な感情の篭った声だった。大悟でも、洸が大声を出したところは

片手で数えられるほどしか見た事がない。

 

「ここでお前との勝負に決着をつけて、何の悔いも残さずに生きて帰る事が俺の望みだ。だから

お前も俺と戦え、大悟!」

「――ざっけんな! んな自分勝手な理屈に俺を巻き込むんじゃねぇよ! 簡単に人を殺そうっ

てとこもムカつくけどなぁ、俺がそんな簡単に戦いに乗るってお前に思われている時点で、それ

がすげームカつくんだよ! 俺は、こんな形でお前と勝負したくなんてねえんだよ!」

 自分との決着をつけたいと言う洸の姿に、大悟はかつての自分自身を見た。

 

 

 

 一年生の時、薫や洸と始めて知り合った球技大会の試合で負けてから、あの二人に執拗に

再戦を申し出ていた自分の姿を。

 その要求は結局受け入れてもらえず、ひどく落ち込んでしまったことを覚えている。

 スポーツの試合と殺し合いとでは話の土俵が違いすぎるが、洸の言っている事、気持ちが全く

分からないという訳ではない。現に大悟自身、プログラムが始まった直後は「洸ともう一度勝負

をしておけばよかった」と思ったものだ。

 だから大悟は、洸が簡単に人を殺すという選択肢を選んだ事が許せなかった。彼の気持ちが

分かるから、自分がしてはいけないと思ったことを彼がやっているから、こんなにも不快な気持ち

になっているのだろう。親友だからこそ、彼の凶行を止めなくてはいけない。

 大悟の怒号を受けた洸は、それを鼻で一笑した。青臭い――夢見がちな理想論だ、とも言い

たげに。

 

「……だったら、どういう形が残されている。制限時間のあるプログラムでその答えを出さなけれ

ば、お互い殺されるしか道はない。今はわずかな猶予もないんだ。俺はその時の最良の選択肢

を選んだまでだ」

 小太刀を手の中で素早く回転させ、逆手に持ち替えボディブローを打つような形で小太刀を振

り払う。長い刃物――例えば刀などはある程度の加速を得ると、使用者が力を込めていなくて

も武器そのものの長さと重さで、充分な殺傷力を得る速度、力に達する。

 しかしナイフや、洸が持っている小太刀のような短く軽い刃物では加速も、重さによる切断も生

じにくい。そこで逆手に握る事で、充分な力を乗せやすくなる。洸がそれを理解していたかどうか

は分からないが、彼の取った行動は近距離戦において、非常に理にかなった攻撃手段だった。

 

 手を伸ばせば相手に触れられる程の距離。大悟は上半身を後ろに反らす事によって、その

小太刀をかわした。

 打撃じゃダメだ。動きを止めないと。

 明確な殺意を持ってぶつかってくる洸に対し、大悟はなおも説得を試みようとしていた。

 今ここで正面から説得しようとしても、洸は聞く耳を持ってくれないだろう。ここは気絶させるか

何かをして、その後に話をする事の方が賢明だ。

 大悟は崩れた体勢を立て直し、相手の襟首を掴んだ投げ技を狙って、洸の懐へ大きく踏み込

んだ。

 

「……ッ!!」

 鳩尾に、強烈な衝撃が走る。

 洸の膝が、大悟の鳩尾に深々と突き刺さっていた。大悟が間合いを詰めた勢いも加わり、内

臓が軋むような重さがごりっ、とねじ込まれてくる。

 襟を掴もうと伸ばされていた大悟の手が虚空を掴み、だらりと垂れ下がる。このままでは、すぐ

にでも小太刀の追撃が来るだろう。

 案の定、洸は素早く腕を折り畳み、再び同じ攻撃を仕掛けてきた。

 まずい。大悟の脳内に警告音が鳴り響くが、強烈な一撃を受けたばかりの身体は迅速な反応

をしてくれなかった。

 逆手に持たれた小太刀は、呆気ないくらい簡単に、大悟の左腕へ吸い込まれていった。半ば

ほどの深さまで入った刀身は彼の二の腕を切り裂き、そのまま勢いで胸元から右腕へと振り抜

かれる。大悟の体が横一文字にばっくりと裂け、鮮血が舞った。

 

 

 

 大悟は後ろに数歩後退し、尻餅をつくような形で座り込んだ。すぐにでも起き上がって逃げなけ

ればいけないが、それどころではなかった。

 何とか動く右腕で胸の傷を押さえるが、そこからは血が溢れ出てくる。かろうじて致命傷は避け

たようだが、決して浅い傷ではない。このまま放っておけば、出血多量で死んでしまうことは目に

見えていた。

 

「覚悟はできたか?」

 眼前まで歩み寄ってきた洸が、大悟の頭上に小太刀の切っ先を突きつけながら言った。

「お前、は……」

 唇を噛み締め、傷口を押さえたまま上体を起こして洸を睨みつける。

「本当に殺したいのかよ。俺達を殺して、自分ひとり生き残って、それで本当に満足なのかよ!」

 血が出たことで意識が朦朧になるのかと思いきや、大悟の頭は意外なほど研ぎ澄まされてい

た。斬りつけられた事により、頭に上っていた血がうまく抜けたのかどうかは知らないが、大悟は

今にも泣き出してしまいそうな痛みに耐えながら、洸の目を見据えて言葉を続ける。

 

「どんな理由があっても――人を殺すなんてのは間違ってる」

「なら、どうすればいい? これはプログラムだ。自分以外の全てが敵なんだ。殺すことを選ばな

ければ自分が殺されるんだぞ」

「俺みたいなことを考えている奴だって、きっと他にも大勢いるだろうが。それにな……お前と

決着付けたいって思ってるのは、俺だって同じなんだよ。でもよ……何もこんな形でそれをやら

なくてもいいだろ。一緒に帰って、いつもみたいにバスケでケリつければいいじゃねぇか」

 洸は呆れた、といった風に軽く首を横に振った。

「脱出の方法でも見つけるつもりか? 馬鹿げている。脱出できる方法なんてあるわけないだろ

う。万が一あったとして成功できても、俺たちはすぐに全国に指名手配される。前と同じような

生活を送ることは、もうできなくなるんだ」

 

 洸の口から出たを言葉を聞き、大悟の顔が歪んだ。痛みではなく、信頼に足ると思っていた

人物が人を殺めようとしている現実。自分が今、死に直面しているという絶望。何の前触れも

なく、こんな理不尽な殺し合いをさせている政府に対する怒り――様々な感情が入り混じった事

による、苦悶の表情だった。

 

 どうすれば――どうすればいい? 大悟は自分に問いかけた。

 殺さなければ殺される。認めたくはないが、自分が置かれている状況はまさにそれだ。生きる

ためには、やらなければいけない、ここで。

 けれど相手は洸だ。良く知っている――つい先日まで、教室や部活で下らない話に花を咲かせ

ていた、自分の友人だ。その洸を、殺す?

 同時にふっと浮かんだ、村崎薫(女子15番)の笑顔。あいつは今、どうしているだろう。ちゃん

と生きているのだろうか。自分みたいに怪我をして、動けなくなっているのだろうか。

 あいつならどうするだろうか。同じような状況に置かれていたら、あいつなら――。

 

 

 

「立てよ、大悟」

 洸の声が耳に届き、大悟は俯きかけていた顔を上げた。

「立って、向かって来い。立ち上がって抵抗をしてみせろ。それともこのまま俺に殺されるか?」

 それは、勝負を付けるという自分の欲望を満たすために言っているのか、何の抵抗もせずに

死を受け入れようとしている大悟を叱咤するために言っているのか。もしくはその両方なのかも

しれない。反論しようと口を開きかけた大悟だったが、先程の傷の痛みにより、呻き声だけしか

出てこなかった。

 

「道徳や倫理なんて、ある程度の秩序が守られている世界でしか適用していない」

 洸は、大悟だけではなく自分に言い聞かせるように呟く。

「俺たちは飢える事への心配がないから、万引きするなだとか強盗するなという法が効果を生ん

でいるんだ。明日どころか今日生きれるか分からない奴に、そんなものが効果を生むと思うの

か? 俺は、生きることにしがみつくために罪を犯すことが絶対間違っているなんて思えない」

 反論、できなかった。言葉に詰まるとか、悩むとかではなく――洸の言葉に、聴き入ってしまっ

ていた。

 生への執着により犯す罪は、時にとって罪ではない。

 飢えから店先に並んでいるパンを盗む事と、刃物を突き出そうとしている相手を殺めようとする

事と、大きな違いはないのではないか。

 自分は結局、状況が見えていなかった、奇麗事を言っているだけの子供なのか。

 

「……違う」

 その言葉は、自然と口から出ていた。

「人を殺すなんて、プログラムなんて、間違っている」

 口腔に溜まっていた血を吐き出し、痛みを堪えながら、大悟ははっきりとした口調で言った。

「生きたいって思うことは間違ってねえと、俺も思うよ。それが原因で犯罪に手を出すことも、ある

と思う。けど今は違う。人を殺さなければいけないってのは、お前の意思じゃないだろうが。クソッ

たれ政府に他の選択肢を潰されて、消去法で選ばなきゃいけなかっただけだろうが!」

 突き出されていた小太刀の切っ先が、ぴくりと揺れた。

「プログラムで人を殺すってことは、プログラムを肯定しちまうって事だろ。自分の気持ち誤魔化

して、環境から適当な理由を付けて――お前はそんなんで良いのかよ。自分自身が納得した

だけで――」

 

「黙れッ!!」

 洸らしからぬ、感情が爆発したような声だった。

「じゃあ他にどんな方法が残っているんだ? これはプログラムなんだ、殺さなければ生きて帰れ

ないんだ! 俺は――俺は、まだ死にたくない! 何もしないで、死んでたまるか!」

 そう矢継ぎ早に叫びながら、洸は小太刀を大悟の喉めがけ、勢い良く突き出した。

 小太刀の刃が垂直に、大悟の喉を狙う。人間離れした超スピードとまではいかなくとも、手を

伸ばせば届く距離にいる相手が攻撃を仕掛けてきたら、回避することは非常に困難だ。

 息を呑む暇もないというが、本当にこれは、息を呑む暇もなかっただろう。

 

 ただし、この場所にいる人間は――大悟と洸だけではなかった。

 

 小太刀の切っ先が視界一杯に映った瞬間、それが真横に大きくぶれた。周囲の状況に気を

配っているほど余裕はなかったが、目の前に息を切らした桐島潤(男子6番)が立っているのを

見た時は、彼が洸を突き飛ばしたのだと分かった。

「大悟、立てる!?」 

 潤は大悟を立たせようと肩に触れたが、大悟の顔が痛みで歪んだのを見て、慌ててその腕を

引き戻した。

「多分、立てる。つか、いってぇ……」

 潤の声に応じ、大悟は両足に全体重をかけながら何とか立ち上がった。出血は多少弱まって

いるものの、白の無地だったワイシャツは半分以上が赤色に変わっていた。

「は、早く血を! 血を止めなきゃ!」

 潤はポケットから取り出したハンカチを大悟の胸の傷に押し当てた。その程度の処置で血が

止まるはずもないが、大悟はそれを口に出さなかった。

 

 ハンカチで傷を押さえている潤の手は、意識が緩慢になりつつある大悟でもはっきりと分かる

くらい震えていた。眼鏡の奥の双眸からはぽろぽろと涙がこぼれ、呼吸も荒く軽いパニック状態

になっていた。

 ――こいつ、こんな状態で俺を助けようとしたのかよ。

 無傷の潤よりも腕が千切れかけている自分の方が落ち着いているのも、おかしな話だった。

 

「潤、もういい」

「馬鹿! こんなに血が出てるのに良いわけないだろ!」

「だからだよ。もう、いいんだ」

 千切れかけた左腕からは、絶え間なく血が流れ出している。整った医療設備のないこの状況

では、出血を完全に止めることは難しいだろう。

 仮に止められたとしても、プログラムの参加者は20人近く残っている。例えばこれが残り3人

だったならば、急いで決着をつければ搬送された病院で治療を受け、助かる見込みもあるだろ

う。だが今この状態で――満足に立つ事すらままならないこの体でプログラムを勝ち残るのは

不可能だ。

 

 泣き出す寸前の子供のような表情を浮かべている潤を見ながら、大悟は思った。

 ――俺は死ぬ。今日、ここで。

 何もできないまま、死んでしまう。薫や鈴森雅弘(男子8番)渡良瀬道流(男子18番)といっ

た仲の良い友達に会えないまま。戦いを止められず、誰も救えず……一番の友達を、説得でき

ないまま、死んでしまうのか。

 

「冗談じゃねぇ……」

 大悟は自分に近づいてくる死に、恐怖と共に悔しさを感じていた。

「冗談じゃねぇよ……このまま黙って、引き下がれるか」

 潤にも聞こえないくらい小さな声で呟いた視界の隅、潤に体当たりをされた洸が小太刀を拾っ

て立ち上がったのが見えた。

「潤、俺を見捨ててどっか行け」

「何言ってんだよ! できないよ、そんなの!」

「行けよ。琴乃宮、捜してんだろうが」

 琴乃宮、という言葉に、潤の動きがピタリと止まった。唇は引き結ばれ、涙で真っ赤になって

いる目がわずかに見開かれる。

「洸は、俺が止める。だから早く行け」

 

「……いや、だ」

 前と同じだった。プログラムが始まった時――逆瀬川明菜が銃を突きつけてきた時と。

 あの時は大悟の提案に乗り、結果として二人とも無事に危機を脱する事ができた。時間はかか

ったけど、こうしてまた会うこともできた。

 けれど今は違った。ここで大悟の言うとおりにしたら――もう二度と、大悟とは会えなくなる。

ほとんど確信とも言える予感だった。

 

「わがまま言ってんな。俺はもう、やりたい事ができそうもねえ。けどお前を無事に逃がして琴乃

宮に会わせるってのと、あいつを説得するってのは、まだ出来ると思うんだよ。二つ目のやつは

ギリギリって感じだけど」

 自分が今、地面に立っている感覚がなかった。頭がくらくらして、喋っているのでやっとだ。

「まだやる事、やってねえんだろ? だったらまだ死ぬな。自分のやりたい事、やれ。薫とか道流

とか、頼りになる奴、いるから」

 かろうじて動く右腕で、潤の体をどん、と押した。親指を立てた握り拳を作り、自分の事は気に

するな、とアピールする。あの時、一度目の別離の時にしてみせたように。

 

「――――っ」

 少しの間を開けて、潤は走り出した。踵を返し、大悟から全速力で離れていく。

 涙が止まらなかった。拭っても拭っても、涙腺が決壊したように涙が溢れてくる。

 二度も大悟に助けられた自分の無力さと、引き返して大悟を助けたいという思いを振り払うよう

に、潤は明け方が近づいている森の中を駆けて行った。

 

【残り20人】

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