57





 六時の定時放送が流れてから一時間が経とうというところで、桧山有紗(女子11番)

とうとう我慢ができなくなった。もともと小食だしダイエットの経験もあるので一日くらい食べ

物を口にしなくても平気だが、今回ばかりは状況が違う。身体を横にして寝ようとしても、

持っていた本を読んで気を紛らわせようとしても、すぐにやってくる強烈な空腹感が有紗の

神経を刺激した。

 

 食べるものが無くて困っているというわけではなかった。デイパックに入っていた政府支

給の、いかにも安っぽそうなパンにはまだ手を付けていない。――いや、付けなかったと

言うべきだろうか。

 

 ただのパンという時点で食欲が失せるというのに、自分たちをこんな目に陥れた張本人

たちが用意した食べ物なんて食べる気がしない。こんな不味そうなパンを食べたって不愉

快になるだけだし、もしかしたら毒が盛られているかもしれない。同じくデイパックに入って

いたミネラルウォーターは封が切られていなかったので幾分か安全だと判断し、何回か口

にしている。思った通り不味かった。うちで使っているものと同じのを用意してくれたって

いいのに。気が利かないわね。と、やや場違いな不満を漏らしていたが。

 

 

 

 桧山有紗はC−06地点に位置する、ホテルの別館の中にいた。別館と言ってもその規

模は本館と比べ物にならないくらい小さいもので、外観はやや大きめのペンションといっ

た感じだった。恐らく団体客のために作られた施設なのだろう、一階はトイレ、浴室、キッ

チンといった日常設備の他、リビングをもっと広くしたような内装の部屋があった。二階は

それぞれの寝室がいくつも用意されており、一階に比べると必要最低限といった作りにな

っている。大勢の宿泊客が訪れる本館とは違い、ゆったりとした空間で自分たちの時間を

過ごす事が目的とされているようだ。

 

 有紗が隠れている二階の寝室には窓から差し込む月明かりがやや届いているが、それ

でもほとんど暗闇に近い状態だ。部屋の灯りやテーブルの上に置いてあるスタンドがつく

かどうか試してみたが、電気そのものが止められているらしく、どうする事もできなかった。

 二階にある寝室はどの部屋も同じような作りになっており、中にあるものはベッド、テレ

ビ、小型のテーブルなど、必要最低限の設備だけだ。有紗はプログラム開始直後から、

この部屋に腰を落ち着けている。

 

 二階の寝室はどれも施錠ができるようになっているため、身を隠すのにはうってつけの

場所だった。半日以上をこの場所で過ごしているが、その間に何回も火薬が破裂するよ

うな音を聞いている。その音の正体が何なのかは、一人、また一人と名前を呼ばれていく

クラスメイトの事を考えれば明らかだった。

 自分も、あの放送に名前を読み上げられるのだろうか。気が滅入っているとはいえ縁起

でもない事を考えてしまい、有紗は思わずぞっとする。

 

 有紗はデイパックのジッパーを開き、中に入ってあるビニール包装されたパンを取り出

した。毒が入っているかも、とか、こんな安っぽくて不味そうなものなんて食べたくないとい

う思いはあったが、それも空腹には勝てなかった。

 封を切り、パンを千切って口に運ぶ。一口、二口と食べて何事も無いか様子を見て、

自分の身体に何の異常も無いことを確認してからパンにかぶりついた。バターもジャムも

ない、味気も何もあったものじゃない食べ物のはずなのに、何故かとても美味しく感じられ

る。犬のようにかぶりついて食べている事に恥ずかしさを覚えたが、パンを食べる手は止

む様子を見せなかった。

 

「何で、何で、何で……」

 ぶつぶつと、まるで呪文のようにその言葉を呟く。

 何で、私がこんな目に。

 

 プログラムが始まってから幾度となく呟いてきた言葉だった。彼女自身は気付いていな

いようだが、有紗は自分の身に災難が降りかかると”何で私がこんな目に遭わなきゃい

けないの”といった台詞をよく口にしている。恐らく無意識のうちに言葉として出ている、癖

のようなものなのだろう。

 

 頬に、ひんやりとした感触が伝わる。涙だ。お気に入りのハンカチで涙を拭い、必死に

泣き声を噛み殺す。この姿を学校の男子生徒が目にすれば、その大半が彼女の虜とな

ってしまうだろう。

 有紗は学校の中でも特に目立っている女子生徒だった。艶やかで腰の辺りまである

ストレートヘアに、部活動をしていながらもケアが行き届いている美しい肌。学校でもトップ

レベルの美しさを持っているため、当然男子生徒の人気は高い。大会では常に上位入賞

というテニスの腕前と、裕福な家庭に生まれたお嬢様、といったステータスも彼女の人気

に拍車をかけている。

 その反面、同姓の生徒たちからはあまり好かれていなかった。有紗の傲慢で利己的な

性格がその大きな要因と言える。本人がその事に気づいていないというのが、唯一の救

いといったところだろう。

 

 

 

 プログラムの対象クラスになるという事は、中学三年生であれば誰しもが危惧する事だ

ろう。有紗の両親も、有紗の親戚も、この国に住むものなら一度は考える。それは有紗

本人も例外ではなく、彼女もまた中学三年生に進級した際、逆瀬川明菜(女子7番)

安川聡美(女子17番)と”もしもプログラムに選ばれたら”といった内容の話をしたことが

あった。

 

 誰が話を振ってきたのか今では覚えていないが、確か始業式の直後、自然とその話に

なっていたのだ。

 あの時明菜と聡美は『誰かを殺すなんてできない』とか、『襲われたら身を守るために

殺しちゃいそう』とか、そんな事を言っていた。自分はどうだっただろうか。どうせプログラ

ムなんかに選ばれるはずがないと思い、真面目に会話に参加していなかった気がする。

 そう、あの時はまだ、誰も未来の事なんて分かっているはずがなかった。

 

 自分たちが本当にプログラムに参加させられ、殺し合いをさせられるなんて。

 

 そして今、プログラム開始からあと三、四時間で丸一日が経過しようとしている。放送で

名前を呼ばれたクラスメイトは九人。その中には部活仲間の御剣葉子(女子14番)や、

あの時一緒にプログラムの話をしていた明菜の名前もあった。

 

 テニス部の副部長でいつも忙しそうに動き回っていた明菜。暗くて誰かの陰に隠れてい

ることが多かった葉子。

 あの二人は、もうこの世にいないのか。そう思ってもあまり実感が湧いてこなかった。

日頃の交流こそあれど、あの二人に対して友情だとか競争相手だとか、そういった特別

な思い入れはない。

 

 ただのクラスメイト。

 それ以上でもなく、それ以下でもなかった。

 

 

 

 ――ただのクラスメイト、か……。

 月明かりが差し込む部屋の中で、有紗は思う。

 そのクラスメイトの中で、誰か私と一緒にいてくれる人はいるだろうか?

 有紗はスタート直後からこの場所で篭城をしており、外に出ることはおろか窓から外の

様子を眺めてさえいないため、まだ誰とも出会っていなかった。

 

 定時放送と時折聞こえてくる銃声以外は何も聞こえてこない、そこだけ世界から隔絶さ

れたかのような部屋。そんな中で一人、いつ終わるとも知れない時間を過ごす事がどれだ

け辛く、寂しい事か。

 寂しさに耐えかね、何度も何度も外に出ようとした。しかしその度に、やる気になってい

る誰かに襲われるかもしれないという恐怖感、自分と一緒に行動してくれる人がいるのだ

ろうかという不安感が、外の世界への第一歩を留まらせていた。

 

 自分のことを信じてくれそうな人たちといったら、真っ先に思い浮かぶのはテニス部の

メンバーである。

 しかし彼女たちは本当に信用できるのだろうか。プログラムのルール上、敵は自分以外

の全員ということになる。親しい態度を装っておいて、こちらが気を許したところで後ろか

らザクッ、ということも充分考えられるのだ。

 

 一度そう考えてしまったら、誰か信用できる人物で誰がそうでない人物なのかわけが分

からなくなってきた。自分が相手のことを信用したとしても、相手は自分のことを信用して

いないケースだってある。日常では友達だったあの人が、ここでは殺人者になっているか

もしれない。

 信じる信じない以前に、ここで誰かを信じるということ自体が無理なのだ。

 それに、出発前に片桐裕子(女子3番)が殺された場面を見てしまったことで、自分も死

んでしまったらああなるんじゃないか、と思ってしまう。

 

 ――嫌だ。

 

 あんな無残に、惨たらしく、汚い死に方をするのは絶対に嫌だ。

 片桐裕子のように醜い姿を晒すくらいなら、いっその事――。

 

 そこまで考え、有紗はちらりとデイバックに目を移した。半ばほどまでジッパーが開けら

れているそのバックの中には、地図や食料といったものとは別の、そういったものとは明

らかに違う用途を目的とした物体が眠っている。

 

 ワルサーPPK。

 それを一言で言い表すとするならば、拳銃という他にないだろう。

 拳銃の中でも小型の部類に入るワルサーは有紗の手でも扱える仕様になっており、総

弾数こそ七発と少ないものの、人ひとりを死に至らしめるには充分すぎる威力を持つ代

物だ。

 これが桧山有紗に支給された武器であり、唯一にして最大の戦闘手段だった。

 

 とは言っても、有紗は戦闘――と言うよりは殺し合いだろう――に乗り気ではない。いく

らプログラムに選ばれたからとは言え、そんなものを好き好んで実行するのは自分たちを

『レギオン』と称するあの下品で野蛮な奴らか、フェミニストを気取っている水色サングラス

のあいつくらいだろう。

 

 殺し合いはしたくない。したくはないが、しかし。

 自分が殺されそうな状況であれば話は別だ。

 

 誰かが自分に銃を向けてくれば、自分だって相手に銃を向ける。私はまだ死にたくない。

死ぬのなら寿命を全うして、家族に看取られながら静かに死んでいきたいから。

 だから、殺されそうになったら相手を殺す。これは致し方ない事だろう。世の中には正当

防衛というものがあるのだ。先に武器を向けてきた相手が悪い。

 一番理想的な展開は他の連中が勝手に殺し合いをして、勝手に死んでいってくれること

だが、いくらなんでもそこまで都合よく進展はしないだろう。いつかどこかで、ワルサーの

引き金を引かねばならない時がくるはずだ。

 

 ――まあ、その時はその時か。

 

 

 

 食べ物を胃に入れた有紗は多少機嫌が良くなったのか、それまで一度も触れることの

なかった部屋の鍵を開け、それまで一度も出ることのなかった部屋の外へと足を踏み出

した。パンとミネラルウォーターだけでは味気なかったので、台所に食べ物が残っていな

いか物色しに行こうと考えたのだ。

 扉の先に広がるのは真っ暗な廊下。壁の所々に豪華さをアピールするようなランプが

設置されているが、今は明かりが灯ることなく沈黙している。この廊下を歩くのは、建物

に侵入して立て篭もる部屋を探していた時以来だった。

 

 不気味なまでに静まり返った廊下に立ち、有紗の心臓がドクン、ドクンと脈打ってきた。

照明の類は全滅しているので、廊下の先は闇に包まれ何も見えない。今なら幽霊が出て

きてもおかしくない雰囲気だ。

 変なことを考えないように意識しながら階段を降り、一階へと辿り着く。台所はどっちだっ

け、と考えた瞬間、すぐ近くからカシャン、という音が聞こえてきた。

 有紗は「ひっ」と呻いて、音のした方に振り向いた。確信はないが、今のはガラスが割れ

た音だろうか。

 

 ――誰かが来たのだ。窓ガラスを割って、中へ入ってこようとしている!

 

 有紗は慌てて階段を駆け上がり、自分が立て篭もっていた部屋に戻ってデイパックを

掴み取った。

 一刻も早くここから逃げ出すべきだ。――しかし、どうやって?

 この建物から出るには階段を降り、一階にある玄関から外に出なくてはならない。再び

一階に行けば侵入者と顔を合わせる可能性は非常に高く、有紗はそんな危険を冒したく

なかった。

 

 だが、二階からでは逃げれないのも事実だ。窓から飛び降りればそれも可能だろうが、

足の骨が折れるかもしれない。

 この部屋に立て篭もるという方法もあるが、それではいつ相手に扉を破られるか分から

ない。第一鍵を閉めていたら、自分がここに隠れている事が相手に分かってしまう。

 

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。

 

 逃げるか、戦うか。選べる道は二つに一つ。単純だが、それ故に有紗の命運を分ける

重大な選択だった。

 決めあぐねているうちに、侵入者のものと思しき階段を上ってくる足音が聞こえてきた。

足音はしばらくあちこちを歩き回っていたようだが、やがて有紗が隠れている部屋の方に

も近づいてくる。

 

「……ねえ、誰かいないの?」

 

 ――この声は、ひょっとして……。

 扉の向こう側から聞こえてきた声に、有紗の全身を覆っていた緊張感がゆっくりと消え

去っていった。これが真神野威(男子15番)渡良瀬道流(男子18番)のものだったら

恐怖と絶望のあまりパニック状態になっていたかもしれない。

 だが、聞こえてきた声は茜ヶ崎恭子(女子1番)のものだった。この個性派揃いのクラス

を上手くまとめ上げている人物の一人で、優しく温和な人柄からクラスや学年を問わず

人気がある。自然と人が寄って来るタイプの人物だ。

 

 あの恭子が、いくらなんでもすぐに襲ってくるはずがない。そう思った有紗は警戒心を緩

め、ほっと胸を撫で下ろした。

「誰かいるんでしょう? 安心して、私は武器なんて持っていないわ」

 扉の向こうから、続けて恭子の声が聞こえてくる。

 どうする? 扉を開けるか?

 有紗はここに来て、恭子を迎え入れるかどうかで悩んでいた。彼女が安全なのか危険

なのかで言えば前者の可能性が高いが、それでも有紗には、まだ迷いがあった。

 

 それは単純に、彼女の事が気に食わないから。

 

 クラスメイトの信頼を集め、周りからチヤホヤされていて、表ではそれほどでもないが陰

では男子からも人気の高い恭子の事が、有紗は気に食わなくてしょうがない。

 自分のほうが彼女よりもずっと可愛いし、部活での成績だって上だし、学校の成績も私

の方が若干上(実際は恭子の方が僅かに上である)なのに、何で私よりもあいつの方に

人が集まっているのか。

 

 それに、あのすました態度も気に食わない。変にお上品ぶって、自分が綺麗だという事

をアピールしているつもりだろうか。勘違いも甚だしい。

 彼女と一緒になっても不愉快さが増していくだけだろうが、いつまでもこうして決めあぐ

ねているわけにはいかなかった。ようするに、今この瞬間を回避すればいいのだ。後は

隙を見て彼女とは別の部屋に行くなり、何か理由をつけて追い返してやればいい。

 

 

 

「――恭子、なの?」

 意を決して声をかけてみる。

「その声は……桧山さん? どこにいるの?」

 しばらくして、恭子から返事が返ってきた。

「203号室よ。今、顔を出すわ」

 有紗は用心のためにワルサーを持ち、ゆっくりと、ほんの少しだけ部屋の扉を開けた。

 キィ、とわずかな音を立て、再び部屋の扉が開かれる。

 

「…………」

 扉の隙間からわずかに見える景色の中に、恭子の姿はどこにもなかった。先程自分が

見た真っ暗な廊下が広がっているだけで、人の姿はどこにもない。

 変だなと思い、有紗はもう少しだけ扉を開いた。視野が広がり、先程は見えなかった部

分が見えてくる。

 

 

 

「――――!!」

 

 

 

 いた。

 軽くウェーブのかかった、背中の半ばほどまである黒髪。長い手足が印象的な、すらり

と伸びた体躯。細いフレームの眼鏡の奥から覗く瞳は、有紗が知っている彼女のそれと

少しだけ違っていた。

 

 彼女は消えてなどいなかった。はじめから、そこにいたのだ。

 扉を開けた瞬間の――いや、その時だけ死角となる、部屋の外側、扉の正面に。

 

 何かふっきれたような瞳を湛えた茜ヶ崎恭子の姿を視認したと同時に、焼け付くような

深い痛みが有紗の胸に生じた。

「……えっ?」

 有紗はゆっくりと視線を降ろした。三分の一程度開いた扉の間から恭子の手が伸びて

いて、それは自分の胸元まで伸びており、その手の中には柳刃包丁が握られている。

 

 その柳刃包丁が、半ばほどまで有紗の胸に突き刺さっていた。

 

「こ、の――――」

 有紗はワルサーを握った手を持ち上げたが、恭子が空いているもう片方の手で扉を無

理矢理開き、体ごとぶつかっていくようにして包丁を更に奥へと押し込んだ。

 喉の奥から何かが込み上げてきて、有紗はたまらず咳き込んだ。ガハッという音と共に

大量の血塊が撒き散らされ、恭子の背中にびちゃびちゃと降り注ぐ。

 

 恭子は左足を一歩だけ後ろに下げ、有紗との間隔を空けると彼女を思い切り右足の裏

で蹴り飛ばした。その勢いで包丁が抜け、傷口から大量の血液が溢れ出る。それはもは

やどうしようもない、一目で致死量だと分かるほどの出血だった。

 蹴飛ばされた勢いのまま、どさりと音を立てて有紗は仰向けに倒れた。自分がこれから

どうなるのかも理解できないまま、彼女は暗く、何も映し出していない部屋の天井を見つめ

ながら事切れた。自分の死に様が出発地点で目にし、ああはなりたくないと嫌悪していた

片桐裕子と同じような状態であったということも、有紗には知る由もないだろう。

 

 

 

 茜ヶ崎恭子は自らが手にかけた桧山有紗の死体の前で息を乱し、そのまましばらくの

間、立ち尽くしていた。

 今までにないくらい、心臓が大きく脈打っている。手足が――いや、全身が震えていた。

喉の奥から吐き気も込み上げてくる。

 目を瞑り、何度か深呼吸をした。震える手を反対の手で鷲掴みにし、無理矢理震えを

抑えつけた。

 

 ――人を、殺した。

 

 自分に言い聞かせるように、恭子はその言葉を心の内で呟く。現実が現実として認識

されてこない。実感が湧いてこない。

 だがしかし自分が人を殺したのは事実で、紛れもない真実だった。

 覆す事の出来ない現実。やり直しのきかない過去。

 

 そう、私は――人を殺したのだ。

 恭子はその場に膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って嗚咽を漏らしながら、何度も何度も

「ごめんなさい」と呟いた。

 

女子11番 桧山有紗  死亡

【残り26人】

戻る  トップ  進む





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送