56





 幸せは望んでも叶わないが、不幸は望まなくても叶ってしまうものだと思う。

 

 

 

『過去は消す事ができない。どんなに時が過ぎようと、どんなに忘れようとしても永久に貴様

の後を付いてくる。どんなことをしてもそれは同じだ。貴様のやっている事は無駄だ。誰の

ためにも何のためにもならない、ただの自己満足に過ぎないのさ』

 

 

 

 まるで全身を縛る鎖のように、真神野威(男子15番)が言った言葉は渡良瀬道流(男子

18番)の心と身体に纏わり付いていた。

 それに誘発されたかのように蘇る、あの時の光景。忘れようとも頭の中から打ち消そう

とも、それが道流から離れる事はない。

 刻み込まれた傷は深く、広く、暗い。治る事も悪化する事もなく、その傷口は悪魔の笑み

ように胎動し、道流を内側から傷つけていく。

 

 気絶し、動かなくなった威をしばらく眺めると、道流は煙草に火を点けて少し離れた場所

に横たわっている村崎薫(女子15番)のもとへ向かった。所々腫れ上がり、赤くなったその

顔を見る限り、よほどの暴行を受けたのだろう。鎮火しかけていた威たちへの怒りの炎が、

再び燻り始めてきた。

 

「おい、薫」

 呼びかけながら揺すってみる。応答はなかったが、呼吸音とかすかな呻き声ははっきりと

道流の耳に届いた。薫は生きている。それだけで道流は救われた気分になった。

 ――良かった。今度はちゃんと助ける事ができた。

 薫の姿が幼い頃に失った妹の姿と重なり、道流の脳裏に浮かび上がる記憶はより鮮明

なものになっていく。

 

 

 

 

 

 それは、渡良瀬道流がまだ小学生の頃だった。

 小学三年生の夏休み、道流は二つ下で小学一年生である妹と一緒に、学校のプール

から自宅へと続く道を歩いていた。道流の通っていた小学校は夏休みになると児童のため

にプールを開放しており、これまで何回も行ったことがあるため、二人きりで道を歩いてい

ても不安は全くなかった。夜ならばまだしも今は昼間だし、通いなれた道なのでまず迷子に

なることはないだろう。

 

 妹は道流と違ってやや内向的で、何かをするときはいつも道流の後をついてきていた。

”頼りになるお兄ちゃん”として家族や親戚にも評判の良かった道流にいれば安心だと思っ

いたのか、何をやるにしても、まず自分に話しかけてきた。たまに「うっとうしいなあ」と思う

時もあったが、だいたいは可愛い妹のためだと、ついつい甘く接してしまった。

 

 いつも通りのはずだった。

 午前中からプールに行って、お昼を少し過ぎた辺りで帰ってきて、家で昼食を食べる。

 そんないつも通りの毎日が今日も訪れる。そう、思っていた。

 

 まずいつもと違ったのは、家の前に黒いワゴン車が停まっていることだった。両親が使っ

ている車ではない。ならば両親の知り合いだろうか。だが父は仕事中で、母は友人たちと

映画を観に行っている。鍵はちゃんと掛けて行ったので、留守だと知ったらあんな所に車

を停めず、すぐ帰りそうなものだが。

 不審に思ったものの、道流はそれほど気にせず車の前を通過し、家の鍵を取り出して

玄関に手をかけた。

 

 ガラッと音を立て、扉が開いた。

 

 ぞっとした。血の気が引く、とはこういう事を言うのだろう。怖さではなく不気味さが足元か

ら這い上がってくる。

 立ち尽くす道流へ、妹が「お兄ちゃん、どうかしたの?」と声をかけてくる。道流はニコッと

笑い、「なんでもないよ」と言って妹の頭を撫でた。

 きっと出るときに鍵をかけ忘れたのだろう。道流は自分にそう言い聞かせ、妹と一緒に

家の中へ入っていった。

 

 その時に見た光景は、今でも鮮明に瞼の裏に焼きついている。

 

 うだるような暑さの中、絶え間なく響くセミの泣き声。

 窓から差し込んでくる陽光。

 ぐちゃぐちゃに散らかされた室内。

 その中にいる、見たことも無い三人の男。

 

 彼らが空き巣だと分かったのは事件後しばらくしてからの事で、その時は突如目の当たり

にした非日常の世界に、ただただ呆然とするしかなかった。

 向こうも同じような状態なのか、呆けた顔で道流たちを見たまま何も言おうとせず、動こう

ともしない。

「ねえお兄ちゃん、この人たち誰?」

 妹の発したその一言で、停滞していた時間が動き始める。

 それまで呆然とした表情で道流たちを見ていた三人組は、妹がそういった途端に突如と

して鬼のような形相で叫び声を上げた。

「そのガキどもを捕まえろ!」

 その狼狽した声と恐ろしい表情を前に、何を言われたのか理解するより速く妹の手を掴

みとり、その場から逃げ出していた。

 

「追え! 絶対に逃がすんじゃねえ!」

 男の一人が叫んだ。そしてそのまま道流たちに掴みかかろうとして、床に散らばっていた

何かにつまずいてバランスを崩した。道流はその隙を見逃さず、全速力で玄関目掛けて

駆け出していく。

 何が起こっているのか理解できない。状況を飲み込めない。急速に体温が低下し、心も

凍りつきそうな勢いになっている事だけを感じ取っている。

 何がどうなっているのか分からないが、あいつらに捕まったら最後だ。それだけは、幼い

心ながら充分に理解できた。

 

 あと少しで外に出られるというところで、道流の背中に激痛が走った。

 

「…………!?」

 燃え上がるような灼熱感と、氷のような冷たさが同時に身体の中へ潜り込んでくる。

 痛みの正体は、すぐに理解できた。

 自分の背中に、包丁が突き刺さっている。どうやら、男の一人が自分たち目掛けて投げ

つけたらしい。

 

 道流がはっきりと覚えているのは、そこまでだった。熱さと冷たさを伴った強い痛みが背

中に現れた瞬間、まるで強制的に電源を落とされたかのように、道流はその場で前のめり

に倒れた。頭の中に黒い霞が澱み始め、意識と視界が瞬く間に闇の中へ沈んでいく。

 急速にぼやけていく視界の中、先程の男たちが大慌てで外へ飛び出していった。きっと

外に停めてあった車は彼らのものだったのだろう。

 

 薄れていく意識の中で、道流の頭に妹の事が過ぎった。そうだ、あいつはどうしたんだろ

う、と思う。道流は自分が砂浜に沈み込んでいくような錯覚に襲われており、頭の中は視界

と同じく霞がかかっていて、思考と呼べるほどはっきりとした事は考えられなかった。

 

 そう思った矢先、道流の目に妹の姿が飛び込んできた。

 

 男の一人に連れ去られていく妹の姿が。

 泣きながら、精一杯手を伸ばしている妹の姿が。

 ゆっくりと広がり始めた血の中で倒れ伏し、動かなくなった兄に向けて彼女は言った。

 

 

 

 たすけて、おにいちゃん。

 

 

 

 それが――最後だった。

 妹の顔を見た、妹の声を聞いた、動いている妹を見た、それが最後の瞬間だった。

 

 それから何がどうなったのか、道流は覚えていない。次に目を覚ましたときは病院で、両

親が泣きながら自分のことを抱きしめていた。包丁による傷は思ったよりも深く、あと少し

搬送が遅れたら失血死の可能性もあったらしい。自分がいつまで経っても目を覚まさなか

ったので、両親は気が気ではなかったようだ。

 

 道流が事件の詳細を知ったのは、これから数日後の事になる。

 妹は死んでいた。金品目的で道流の家に侵入した犯人たちは、顔を見られた事の口封

じのために妹を絞殺し、山奥にある不法投棄されていた冷蔵庫の中へ遺体を隠した。

 真夏の炎天下の中で密閉空間に放置された妹は、人の死体を見るのに耐性がついて

いる警察ですら直視するに耐えない状態だったらしい。それでもいいから妹の顔を見たい

と言っても、両親は頑なにそれを拒んだ。

 それでも道流は両親の制止を振りきり、葬式の際、棺を開けて妹の遺体を見ようとした。

荼毘に付される前に、一目でいいから顔を見ておきたかったのだ。

 

 棺の中に入っていた”それ”を見て、道流は言葉を失った。

 

 妹はもう――人の姿をしていなかった。

 自分が知っている可愛い顔はどこにもなく、もはや人とは呼べぬただの肉の塊が、そこに

あった。

 

 妹は死に、自分は生きている。

 妹が殺され、自分は助ける事が出来なかった。

 まるで夢か御伽噺のような話。

 それ自覚し、現実のものとして受け入れた瞬間、道流の中で決定的な何かが壊れた。

 

 眠れない日々が続いた。異常なほど喉が渇き、水を飲んでも飲んでも渇きは癒されない。

「あ……ぁぁあ……あ……」

 目を瞑るたびに蘇る、最後に見た妹の顔。

 彼女は恨んでいるだろうか。助けてやれなかった、この不甲斐ない兄を。

 妹を失った哀しみ。犯人たちに対する怒り。何もしてやれなかった、助けることができな

かった自分自身への罪悪感、自己嫌悪。どんどん自分を追い込んでいく道流を、両親や

家が近所にある黛真理(女子13番)が心配して何度も励ましてくれたが、道流は誰とも口

を聞こうとしなかった。

 

 時間が経つにつれ、思うようになってきた。

 妹を助けられなかったのは、力のない自分のせいだと。

 妹が死んでしまったのは、弱くて何もできなかった自分のせいなんだと。

 

 この事件を機に、もともと片鱗のあった道流の責任感と自己犠牲の強さは、揺るぎようの

ない確固たるものになった。

 誰かを護るという事に、必要以上に固執するようになったのだ。助けられたはずの妹を

見殺し同然にしてしまったという強い後悔が、『自分が強くならなくては』という道流の思いを

強迫観念のように後押しするようになった。

 

 自分は強くなくてはならない。いざという時に、側にいる誰かを――失いたくない大切な誰

かを護るために。

 

 道流はその一心で、がむしゃらに身体を鍛え上げ、いじめ抜いてきた。トレーニングとい

うトレーニングにはほとんど手を出し、実戦経験を磨くため不良相手にケンカ三昧の日々

を送っている。その結果、中学生どころか人間としての能力を凌駕するほどの力を身につ

けているが、それでもなお道流は高みを目指し続けている。

 

 あの時死んだ妹の幻影が、頭から離れないのだ。

 時に悪夢として。時に幻影として、それは彼を引き留め、離そうとしない。

 

 どうすれば許してくれる? 他人を助け続ければ、お前は俺を許してくれるのか?

 

 決して答えの返ってこない問いを、心の中で呟き続ける。

 彼女が自分を許してくれ、またあの笑顔を浮かべてくれる時がくるまで。

 罪の意識に苛まれ、強さを求める少年はその時が来るのを待ち続けている。

 

 

 

 

 

「――待て」

 ふいに、声が聞こえてきた。息が荒い、呼吸をするのも難しい、といった様子の声。

 両腕で薫を抱きかかえ、この場を去ろうとしていた道流は足を止めて振り返る。その声の

主が誰なのかは、もうとっくに分かっていた。

「何だ何だ、まだ殴られ足りないってか?」

 五メートルほど先に、立っている事さえ辛そうな萩原淳志(男子13番)の姿があった。

「奪った銃を置いていけ。全部だ」

 言いながら、淳志は右手を突き出し、道流へと向ける。その手の中には威が持っていた

拳銃、ブローニングハイパワーがあった。

 銃の種類に詳しくない道流は、それを見て”あいつの持っていた銃は奪ったはず”と疑問

を抱いたが、その答えは実に単純なものだった。

 

「なるほどね。さっき真神野が銃を投げたのは、いざという時にお前に渡すためか」

 威は銃を捨てたとき、『素手で自分を殺すためのパフォーマンス』だと言っていた。道流も

そうだと思い込み、彼の言葉をそのまま受け入れていたが……。

 万が一のため――例えばこういった場面がやってきた時、仲間の誰かが目を覚ましてい

たらきっと銃を撃ってくれる。そう予想し、保険をかけていたというわけか。

 真神野威という人間の計算高さ、用心深さに腹を立てつつも、道流は目の前の敵に意識

を集中させる。薫を抱きかかえているこの状況で戦うつもりはない。無事に逃げ切るため

にも、最初の一撃を避ける事だけに意識を集中させる。

 

「断るっつったら、どうする気よ」

「村崎を撃つ」

 今は気を失い、道流に抱きかかえられている少女、村崎薫。彼女を撃つと宣言しただけ

で、道流に異変が見られた。眉が僅かに動き、口の端が引き締まる。

 観察力の鋭い淳志は、それを見逃さなかった。

「俺はあんたには勝てない。けれど、お前を苦しませる事くらいは……弱らせる事くらいはで

きるぞ」

 道流の視線に力が入る。威に向けていたような、相手を射抜き、抉ってしまうほどの鋭い

眼光。

 

 そんな露骨な敵意と殺意をぶつけられても、淳志は言葉を続ける。

「何も難しい事じゃない。動かない女一人を殺すなんて、あんたを相手にするよりも数万倍は

容易いんだ。人差し指を引けばそれで済む」

「てめぇ―ー」

「おっと、妙な動きはしないでくれ。俺は撃とうと思えばいつでも撃てるんだ。この距離からな

ら外さない自信のほうが大きい」

 道流が歯を食いしばり、悔しそうにしている様子を見ているだけで胸がスッとした。それと

同時に、抵抗もできない女性を脅しのネタに使っている自分自身を見て、どこかやりきれな

い苛立ちが湧き上がってくる。

 

「皮肉だな。あんたは他人を護ろうと強さを求めていった結果、護ろうとしていた他人が原

因で命を落とそうとしてる。それでもあんたは、その生き方を続けるつもりなのか?」

 これはある種の賭けだった。道流の過去に触れることが、龍の鱗を逆撫でするかの如き

行為だということは充分に分かっている。けれどもしこれで道流が逆上して、自分たちの銃

が入ったデイパックを落とすなり、自分に向かってくるなりすれば、事態は何らかの形で進

展する。このまま現状維持では、いつまで経っても埒が明かない。

 

「……挑発しているつもりか?」

 フィルター部分まで火が迫ってきた煙草を吐き捨て、靴の裏で踏み消す。

「さあね」

「これは俺の選んだ俺の生き方だ。それをどう判断すんのかは俺自身が決める」

「――だったら、今ここで村崎を殺されても文句は言えないな」

 淳志は、ほんの一瞬も迷いも見せることは無く、ブローニングの照準を僅かに横にずらし

て引き金を引いた。避けられるはずのない攻撃だが、道流は薫を抱きかかえたまま、その

場から動くことなく上半身を大きく捻って銃弾をかわす。

 身を捻った勢いを殺すことなく、道流は上手く体勢を保ったまま足に力をいれ、地面を蹴

って駆け出していた。

 

 

 

 背後から続けざまに銃声が聞こえてくる。足元で土煙が跳ね、すぐ横の木に穴が穿たれ

る。このプログラムで初めて銃を手にしたのだろうが、それにしてもなかなかの腕前だった。

 しかしそんな事に感心している暇は無い。今やらなければならない事はあいつを倒す事で

なく、薫を死なせないためにここから離れる事だ。

 

 道流は全力で走った。クラスの中でも足の速さは一番だったし、身体だけは常日頃から

鍛えている。もっとも今は銃器がたくさん入ったデイパックと人ひとりを抱えて走っているの

で、ベストの状態というわけにはいかないが――それでもなお、道流は淳志から逃げ切れ

る自信があった。事実、聞こえてくる淳志の声と銃声はどんどん小さくなっていく。

 いける。そう思った瞬間、道流の右脇腹に衝撃が走った。それで足がもつれて倒れそうに

なったが、道流は走るのをやめなかった。

 

 右の脇腹が熱い。道流の引き締まった身体から血が伝い降りていく。真神野威以外で傷

を付けられたのは随分と久しぶりだな、と暢気な思いが頭をよぎった。

 淳志が撃った銃弾は右脇腹を見事に貫通していた。傷の深さだけ見れば大事に至らな

いだろうが、未だに出血は止まらない。赤い液体がドクドクと流れ続け、道流のワイシャツを

赤く染め上げていく。

 銃声が聞こえなくなっても、道流は走り続けた。木立の間、茂みの脇を通り、北へ北へと

速度を落とすことなく進み続ける。禁止エリアの事だとか、周りに誰かが隠れているかもし

れない、ということはもう考慮していなかった。

 

 道流はただただ、走り続けていた。まるで何かから逃げ出しているかのように、走り続け

ていた。それは自分や薫の命を狙う”敵”からなのか、それとも過去の幻影からなのか。

 

 ふいに、足元の感覚が無くなった。走っていた道はいつの間にか斜面になっており、その

斜面は土砂崩れが起きないように工事されていた。真下に見えるのは、舗装されたアスファ

ルトの道路だった。

 

 切れ落ちた道から宙に放り出され、道流は五メートル近い高さから落下する。

 ダン、という音が全身に響き渡った。歯を食いしばって着地の衝撃に備えたが、やはり足

から伝わってきた衝撃はそうとうなもので、両足がピクピクと痙攣している。しかし折れてい

る様子はない。

 腕の中で眠っている薫に目を落とした。まだ目を覚ましていないし顔は傷だらけだが、ちゃ

んと生きている。それを見て道流は、ほっと胸を撫で下ろした。

 

【残り27人】

戻る  トップ  進む





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送