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 薫の脳裏に思い出したくない光景が蘇ってきた。引き金を引いたときの感覚、鼻につく硝煙

の匂い、血を散らしながら崩れ落ちていくクラスメイトの体。

 殺すつもりは無かった。殺されようとしているものの命を救うため、傷付けることは止むを

得ないと思っていた。そんな考えが光のように頭の中を駆け抜け、気が付いたときには銃を

撃っていた。

 

 スローモーションの世界の中で、自分の撃った弾丸が人の命を貫く光景が。

 初めて人を殺してしまったときの光景が。

 あの時の感覚だけがタイムスリップしたように、薫の全身に蘇る。

 忘れることはあっても消えることはない罪の意識、人殺しの記憶。

 逃れることの出来ない呪縛が、重みを増して薫の体を締め付けていた。

 

 

 

 薫と対峙する刀堂武人(男子10番)はククリナイフを構えたまま、一言も言葉を発すること

なくじっと薫を睨み付けている。相手の出方を窺っているのか、銃を持っているということで

身体が萎縮しているのか。どちらにしても彼の双眸は、戦いを回避しようと思っている者の

それではなかった。獲物を見つけ、どう料理してやろうかと考えている――ギラついた捕食

者の眼だった。

 

 やや色黒の肌に、茶色く染められ、ヘアワックスで軽く立ち上げられたミディアムヘア。両

耳に付けられたピアス。一見すると遊び歩いているだけの学生にも見えるが、彼の立ち振

る舞いは『不良』と称されるものたちの”それ”だった。

 

 先程は気がつかなかったが、武人の左こめかみ付近に殴られたような痣があった。誰か

にやられたのだろうかと考えたが、プログラムが始まる前、友人の琴乃宮涼音(女子4番)

『刀堂も無理矢理ここに連れてこられたらしい』と言っていたことを思い出した。確かスタンガ

ンで気絶させられたと聞かされたが、武人のことだからかなりの抵抗をしたのだろう。あの

痣はその時にできたものなのかもしれない。

 

 

 

「おらあっ!!」

 沈黙と拮抗を打ち破ったのは武人の方だった。思い切り振りかぶったククリナイフを右から

左へと薙ぎ払う。薫は後ろに飛び退って銀の軌跡から逃れた。ククリナイフが空を切り裂く

音が、この距離からでもはっきりと聞こえる。

 

『薫、早く相手から離ろ! このままじゃ殺されるぞ!』

 脳に直接届いてくる真冬の声。いつもならば何かしらの反応をするのだが、今はそれをし

ている暇は無い。薫は即座に踵を返して走り出した。攻撃直後の隙を突かれ、武人は反応

が遅れてしまった。

 

「逃げてんじゃねぇよ!」

 背後から武人の怒声が聞こえてきたが、そんなものに構っている暇は無い。ケンカの腕前

で比べれば薫の勝機は薄いだろうけれど、運動能力ならば武人に負ける気はしなかった。

薫は運動部の茜ヶ崎恭子(女子1番)黛真理(女子13番)に勝るとも劣らない体力を持っ

ている。酒や煙草(やっているかどうかは分からないけど)で体力が衰えているであろう武人

に負ける気はしなかった。

 

 追いかけっこが始まってから数分が経ち、状況は薫が思い描いていたとおりになった。薫

の速さは衰えを見せず、一定のペースを保っている。後ろを振り返ってみると、武人の姿は

米粒のように小さくなっていた。

 このままいけば充分振り切れる。薫のすぐ横にいる真冬はそう考えていたが、直後に薫が

取った行動は真冬の考えを大きく裏切り、彼を愕然とさせた。

 

『――なっ!?』

 思わずそんな声が上がっていた。このまま一気に武人を振り切るんだろうと思った矢先、

何を考えたのか薫はその場に立ち止まって武人の到着を待つような形を取った。

『な、何してるんだよお前! そんなことしてたら追いつかれるぞ!』

「うん、それでいいの」

『まさか――』

 嫌な予感がした。まさか――と思いつつ、否定しきれない予想。薫と出会ってまだ一日も

経っていないが、彼女に対して抱いた嫌な予感は外れたことが無い。

 

「刀堂くんを説得する」

 ――ああ、やっぱり。

 彼女の性格上、こういう場面でどんな行動を取るのかある程度予想できていたので、この

台詞を聞いても真冬はそれほど驚かなかった。

 驚きはしなかったが、呆れた。馬鹿なんじゃないかこいつ、と本気で思った。

 

『……本気か?』

「うん」

『説得できる相手なのか?』

「できなくてもやる」

 薫は断言した。どこにそんな自信があるのか、その目はやる気で満ち溢れている。

「作戦なんて無いし、説得できるかどうかも分からないよ。でも私は逃げない。逃げて後悔す

るよりは、何かをやって後悔する方がマシだもん」

 作戦なんて無い、と薫は言っているが、彼女の取っているものは何よりもシンプルで分かり

やすい作戦だった。

 

 自分の全身全霊を賭け、相手にぶつかっていく。小細工が無いので薫の性格を考えると

合っているかもしれないが、その分結果がはっきりと出てくる。どうやって相手にぶつかって

いくかもその人物次第となるので、薫の手腕が問われる行動だった。

 

 剛を誤射してしまった一件から、誰かを説得することに躊躇いや戸惑いを抱くのではない

かと懸念していたが、どうやらそれは杞憂だったらしい。真冬の目から見た薫に目立った変

化は見られなかった。自分の意思を貫き、それを行動にして移すことに迷いが無い。それは

彼女の長所なのだが、時としてそれは短所にもなる。

 

 薫の選択を咎めたりしようなどとは思わない。真冬にとって心配なことは相手が薫の言葉

を聞き入れず、彼女を傷付けてしまうこと。最悪の場合、それは死に繋がる。

 真冬にとって自分に関わりの無い人間、赤の他人が死んでも何の感情も抱かない。だが

薫は違う。彼女は真冬にとって”他人”ではなかった。十年来の親友というわけではないが、

失いたくない存在になっていた。

 

 失いたくないもの。かつて心に誓い、果たせなかった約束。

 もう同じ過ちは繰り返さない。繰り返したくない。

 意思だけの、魂だけの存在となった自分にそれができるのか。

 

 ――いや、やらなければいけないんだ。

 もう二度と、後悔はしないように。

 

『……分かった。俺も出来る限りのアドバイスはする。ただ危なくなったら逃げろよ。いいな』

「うん、ありがと」

 隣にいる真冬に微笑みかけ、両手に滲んだ汗をスカートで拭い取った。ベレッタをしっかり

と握り締め、瞼を閉じてゆっくりと深呼吸をする。肺の中に新鮮な空気が入り、身体の中が

清涼感で満たされた。思考がクリアになり、不思議と心が落ち着いていく。

 

 瞼を開け、顔を上げて前を見据えた。ククリナイフを握り締め、息を切らしてこちらに走って

くる刀堂武人の姿が目に飛び込んできた。

 

 

 

 

 

「……どういうことだ、てめぇ」

 肩で息をしながら、武人はそう問い詰めた。取り逃がしたはずの獲物が自分を待ち構えて

いる。攻撃を仕掛けてきた側からすればこれほど不可解なことはないだろう。

「あのまま行ってたら逃げれたはずだろうが。俺をナメてんのか? アァ?」

「――刀堂くんは、プログラムに乗るつもり?」

「ケッ……何かと思えば今更そんな事かよ。ンなの当たり前だろうが。俺ァまだ死にたくねえ

しな。てめぇら全員ぶっ殺してでも俺が生きて帰ってやるぜ! てめぇも真神野も渡良瀬も、

邪魔する奴は俺がぶっ潰してやる!」

 それが、口火となった。

 

 ククリナイフの柄を握り締め、両足に力を込めて――そのまま一直線に、腕だけではなく

上半身ごと振りかぶった。

 渾身の力が込められた一撃が、振り下ろされる。

 その動作より一瞬早く――薫は自らの身体を旋回させる。右足を軸に身体が回転し、その

自分の立ち位置がわずかに横にずれるその刹那、軸となっている足を右から左へと変化さ

せた。

 

 その薫の眼前を、ひゅごっ、という風切り音を響かせてククリナイフが通り過ぎる。体の位

置をずらすことによってナイフの軌道上から身をずらしたのだ。

 見た目も威力も派手な攻撃は、その直前、直後に生じる隙も大きい。獲物を逃したククリ

ナイフの切っ先が地面に突き刺さった時にはもう、薫が持つベレッタの銃口が武人の下顎に

突きつけられていた。

 

 冷たい銃の感触が伝わったのか、武人の顔に恐怖と動揺の色が浮かび上がった。

 肌に銃口を押し付けられ、王手を掛けられた武人が戦慄を覚えるのと時を同じくして、その

光景を間近で目の当たりにしていた真冬は、武人のものとは別の種類の戦慄を覚えていた。

 

 その原因は、薫が行った回避行動――というより、彼女の身体能力そのものだ。

 ナイフによる振り下ろしの攻撃を避けるのなら、普通は身を退くか横に移動するかの選択

が浮かび上がる。しかし彼女はそのどれでもない、回転の勢いを利用しての回避行動を取っ

た。相手との間隔が取れないしモーションも大きい行動だが、相手の攻撃直後の隙を突く、

いわゆる”カウンター”を狙う場合では充分な効果が期待できる。使用者の俊敏性が問われ

る所業故に、簡単な動作ではない。

 

 生前の真冬はスポーツ全般が得意で、そつなくこなす事ができた。薫の身体能力はそれと

比べてもまるで遜色ない。いや、その遥か上を行っている。恐らく自覚していないのは本人

だけだろう。

 

「武器を捨てて、もう人を殺そうとしないって誓って。でないと撃つわよ」

 辺りがしんと静まり返った中、薫の声が武人の耳朶を打つ。近接戦闘ではナイフの方に分

があるが、相手の武器が体に触れていれば話は別だ。どんなに素早い行動を起そうと、薫

の人差し指はそれよりも速く引き金を引くだろう。

 

 武人にしてみれば、まさしく窮地に立たされた図だった。自分の命は、目の前にいる小柄

な少女に握られている。死ぬも生きるも彼女次第。自分本位、唯我独尊な道を歩んできた

武人にしてみればこれ以上ない屈辱だった。

 

 自分より下だと思っていた奴――それも女相手に、手も足も出ず命を握られてしまった。

本来の武人ならば怒り狂ってもいいようなものだが、何故か彼は笑っていた。肩を揺らし、

「ヘッ……ヘヘヘ」と不敵な笑みを浮かべている。棺桶に片足を突っ込んでいるような状態

だというのに、彼は何故笑っていられるのか。

 

「ヘヘヘ……村崎、てめぇそんなこと言ってっけどよぉ、本当に俺のことが撃てるのかぁ?」

 ぐるりと顔を回し、薫の顔を見つめながら言った。

「どうせ撃てっこねえよ。てめえなんざにそんな度胸はねえもんな。俺を撃っちまったらてめえ

は人殺しになっちまうんだぞ? それでもいいのかぁ?」

「…………」

「今だって本当は足がガクガクと震えてるんだろ? ヒャハッ……ハハハハハハハ!」

 

 癇に障る下品な笑いが、突如響き渡った轟音に打ち消される。

 

 薫は、銃口をわずかにずらして引き金を引いた。銃口は武人の顎から離され、明後日の

方向を向いている。銃口が武人に向けられていない以上、撃ち出された銃弾は何を貫くこと

もなく、空を切って遥か彼方へと飛んでいく。

 

「貴方がまだ人を殺そうとするのなら――私は貴方を撃つ」

 薫のイメージからは考えられないような、強く強固な意志を感じさせる声。顔も姿も武人が

知る村崎薫という一人の少女のものなのに、彼女の口から紡ぎ出される声は脅威と戦慄を

感じさせた。

 

 彼女は本気だ。理屈ではない、直感でそれが理解できた。

 あの目、あの声、そして雰囲気――その全てが、彼女の決意は本気だということを告げて

いる。手の中にあるククリナイフを捨てなかったら、その時自分は――。

 

「――次に会ったら、絶対ぇぶっ殺す」

 判断は一瞬だった。武人は怒号と共に脇に立っていた薫をタックルで吹き飛ばし、彼女が

尻餅をついた一瞬の隙をついて森の奥へと駆け出していった。いくら運動能力で勝っている

とはいえ、体格の差は覆しようがない。案の定薫は大きく吹き飛ばされ、立ち上がって銃を

構えたときにはもう、武人の姿はほとんど見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

『どこも怪我はないみたいだな』

「うん、へーき。体当たりされたときはちょっと驚いたけど」

 スカートに付いた汚れを払い落とし、足元に落ちているベレッタを拾い上げる。

「……ごめん。頑張ったんだけど説得できなかった」

『お前が謝ることじゃないさ。そう落ち込むなよ』

 とはいえ、やる気になっている人物を逃がしてしまったのは痛い。武人は間違いなくプログ

ラムに乗っている。順当に考えれば終盤まで生き残っていてもおかしくはない。

 

「べ、べつに落ち込んでなんかいないよ。ただ……また失敗しちゃったなって思って」

 沖田剛を誤って撃ち殺してしまった時の影響は真冬が思っているよりも大きいようだ。責任

感と使命感に駆られ、無茶な行動を起さなければいいが……と不安を感じてしまう。

 

『失敗しない人間なんていないさ。大切なのはそれを次のステップへ生かせるかどうかだろ』

 薫と武人がお互いに生き残り続ければ、どこかで顔を合わせる可能性が大きい。その時に

また同じ過ちを繰り返すか、今とは別の結果を出すか。それは薫次第となってくる。

 

『今はここから離れよう。今の銃声を聞きつけて誰かやってくるかもしれない』

「……うん」

 表面では平気そうに振舞っているが、心の中では泣きたくて仕方がなかった。強がっては

いるけれど、いきなりプログラムに巻き込まれて、人を殺して、やる気になっている相手を逃

がしてしまった。

 

 怖くて情けなくてどうしようもなかった。思い切り涙を流して泣きたかったが――それはでき

なかった。

 自分が泣いたら真冬にいらない不安を掛けてしまう。涙を流している最中も、涼音たちが

どこかで危機に陥っているかもしれない。自分だけ甘えを見せるのは、どうしても躊躇いを

感じてしまう。

 薫は浮かび上がってきた涙を拭い、今は思い切り泣く時ではない、と自分に言い聞かせた。

 

【残り29人】

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