36





 この時はまだ気付かなかった。これが夢の中の世界で、現実とはかけ離れた場所なんだ

ということを。

 目が覚めてから思った。夢の中でもいい。あの時のまま、時間が止まったままでいてくれた

ならどんなに幸せだっただろうと。

 

 

 

 一向に緩む気配がない真夏の陽光は、宴町春香(女子2番)の白く美しい肌を容赦なく照

らしていた。じりじりと肌に突き刺すような感覚。日焼け止めを塗っておいたからそれほど焼

けることはないだろうけど、それでも少しは日に焼けてしまうだろう。

 

 春香の視線の先には、自分と同じテニス部の部員たちが熱心に練習を行っていた。今日

は珍しく、三年生を含めたレギュラー選手全員が揃っている。いよいよ今月末に迫った地区

予選に向けて、最後のスパートを掛けているのだろう。特に三年生にとっては中学校で最後

の大会だ。後悔だけは残したくないらしく、どの選手も必死の形相で練習に取り組んでいた。

 

 そんな中、春香は一人離れた場所で練習の光景を見つめている。手にしたタオルで汗を

拭き取りながら、何をするわけでもなくただ仲間たちの様子を見つめていた。

 地区予選、中学校最後の大会……どれも自分には関係のない、恐らく卒業するまで縁の

ないものだ。地区予選ではどうせ選手枠に選ばれないだろうし、春香は二年生だから、コー

トの中でラケットを振っている先輩たちのような、自分にはもう後がないんだという焦りも緊張

感もない。ただ何となく言われた練習をこなし、他の皆が上達していく様子を見ているだけ。

 

 何で私はここにいるんだろう。上達する意思も、勝とうとする気持ちもない私がここにいる

理由は何?

 

 入部した頃はもっと純粋にテニスを楽しめた。どの部活に入ろうか悩んでいたとき、母親か

らの「いい機会だから、何かスポーツでもやって体力をつけたら?」という言葉もあって、苦手

意識を改善しようと勇気を出してテニス部に入部した。

 ゆっくりと、しかし着実に上達していくテニス技術。入部前より遙かに鍛えられた基礎体力。

自分が成長しているんだと肌で感じられた。それは今まで味わったことのない達成感、言葉

にならないような充実感。小学生のようにはしゃぎ、夕食の席で両親に話したりもした。

 

 あの頃の春香にあった気持ちは、今の春香にはない。毎日のように見せ付けられる、チー

ムメイトと力の差。伸び悩んでしまった自分の力。いつしか練習は惰性的なものとなり、テニ

スコートの中で春香の笑顔を見ることはなくなっていた。

 

「春香ちゃん、お疲れー」

 肩に手を置いて気さくに挨拶をしてきたのは、春香のクラスメイトであり、部内ではマスコッ

トのような扱いをされていて学年を問わず友人が多い安川聡美(女子17番)だった。ゲーム

が終わって交代のためにコートから離れてきたようだ。自分のバッグからタオルを取り出し、

テニスラケットを地面に置いて春香の隣に座り込む。

 

「やっぱ先輩たちは上手いね。ボッコボコにされちゃった」

「聡美ちゃんも頑張ってたよ。私だったらあんなに走れないもん」

 不名誉な事だが、春香のテニスレベルは部内でも最低の場所に位置していた。もともと基

礎体力が圧倒的に不足していた上、呑み込みが他の生徒に比べて遅いのである。それでも

入部した頃と比較すると上達はしているのだが、桧山有紗(女子11番)に代表される実力者

が多い静海中学校のテニス部では、春香の腕前でレギュラー選手になれるほど甘くはない。

 

 先輩や同級生のみならず、後輩の一年生までもが春香のレベルの低さを陰で笑っていた。

春香自身もそれには気付いていたが、その生徒たちに対して何かを言うつもりもなかった。

もともと基礎体力の向上が目的でテニス部に入部したのだから、技術面でみんなについて

いけないだろうなということは入部前から覚悟していた。

 

 だがしかし――春香が直面した現実は、彼女が思っていたよりずっと厳しいものだった。

 春香は知ってしまったのだ。自分が成長していく喜び、達成感を。

 知ってしまったからこそ、彼女はいつまでも同じ場所で足踏みをしている自分自身に強い

嫌悪感を覚えている。

 周りのみんなは次々と先へ進んでいくのに、私だけがいつまでも――。

 思うことは出来ても、口にすることはできなかった。

 

 ――私のみっともない愚痴を聞いてくれる人なんて、いるはずないよね。

 

「そういえば明菜ちゃんは? いつもならとっくに来ているはずなのに」

「明菜なら委員会の仕事があるから、それ終わらせたら来るって言ってた」

「いろいろと大変だよね、明菜ちゃんも」

「ま、そりゃあの子が好きでやってることだし。私たちには関係ないっしょ」

「まあね……あ、あっちから走ってくるのって明菜ちゃんじゃない?」

「どれどれ……あ、ほんとだ。噂をすれば何とやら、ってやつね」

 校舎の横を通って走ってきたのは、通学用のバッグとテニスラケットが入っているケースを

肩から提げている逆瀬川明菜(女子7番)だった。彼女はコートの脇で指導をしていた部の

顧問に遅れてきた事情を説明し、すぐにテニス部部室へと走っていく。

 

「相変わらず明菜ちゃん気合入ってるね」

「なんつったって来年は副部長だし、次の大会じゃレギュラー候補だからねぇ。そりゃ本人も

気合が入るでしょうよ」

 逆瀬川明菜――彼女も聡美と同じく、春香のクラスメイトだった。二年生進級時に行われた

クラス替えで一緒のクラスになったが、彼女の事はとてもよく知っている。何でもそつなくこな

すことができて、次期副部長に決定している彼女は、春香にとって憧れの人物だった。自分

も明菜のように、立派に立ち振る舞うことができたらと何度考えただろう。

 

 春香はその場に座ったまま、部室から明菜が出てくるのを待っていた。今日は勇気を出し

て、明菜に「一緒に練習しない?」と声を掛けてみよう。部活でのこと、私生活でのこと――

聞きたいことはたくさんある。聞こうと思って結局聞けなかったことも、たくさんある。

 

 ――何でクラスメイトと話すだけでこんなに緊張しているんだろう。明菜と始めて話すという

わけでもないし、変な話をするわけでもないのに。

 

 きぃ、と音を立てて、部室の扉が開かれた。

「ね、ねえ明菜ちゃん、よかったら私と――」

 そう言って駆け寄っていく春香の足が、途中でぴたりと止まる。

 

 

 

「あ…………」

 部室から出てきた明菜は、全身が真っ赤に染まっていた。赤い絵の具をぶち撒けられたの

かというほど、衣服が、肌が赤く染まっていた。そして――右腕が、消失していた。肩から先

にあるものがなかった。中身の通っていない静海中学のジャージがゆらゆらと揺れている。

やはりそこも赤く、袖先から血の滴が垂れていた。

 

 明菜は残された左腕を春香に向かって差し伸ばした。肘の辺りでぶらぶらと揺れていて、

今にも引き千切れそうになっている。大きく見開かれた眼球、金魚のようにぱくぱくと動いて

いる口、恐怖をそのまま顕現させたかのような顔。

 

 それは春香が憧れた逆瀬川明菜ではなく、かつて逆瀬川明菜だった”もの”だった。

 明菜だったものは緩やかに一歩を踏み出し、そこで糸が切れてしまったかのように地面へ

倒れこむ。頭から前のめりに倒れ、千切れかけた左手だけが未だにびくびくと小刻みな動き

を繰り返していた。

 

 広がっていく血。明菜の血。空も、人も、地面も、全てが赤に染まっていく。赤に沈んでいく。

春香も、彼女の悲鳴でさえも。

 

 

 

 

 

 世界が赤に染まったところで、春香の意識は夢から現実に引き戻された。ゆっくりと瞼を開

け、すぐに上半身を起す。心臓がかつてないほど高鳴っていた。何があったのか。自分は今

まで何をしていたのか。ここ最近の記憶が抜け落ちていた。

 

「気が付いた?」

 どこからか聞き覚えのある声がする。春香はまだぼーっとしている状態のまま辺りを見回

した。すぐ横に鏑木大悟(男子5番)が座っていた。心配そうな顔で自分の顔を覗き込んでい

る彼の手元には、どういうわけかフライパンが置かれていた。

 

「鏑木くん……」

「見たところ傷はなさそうだけど、どっか痛むとことかないか?」

「ない、けど」

「そっか」

 春香の容態が気になっていたのか、大悟は心の底から安心したような表情を浮かべてい

た。いつも教室で見せている、男の子らしい豪快な笑顔とはまた違った、幼さの残る純粋な

笑顔。

 

 そういえば、なんでここに彼がいるんだろう。自分はプログラムが始まってから今までずっ

と単独行動をしていたはずだ。彼と合流した覚えはないし、どこかで落ち合おうと約束を交わ

した覚えもない。

 いや――そもそも私は、何か大切なことを忘れているような気がする。湿気のように体中

にまとわり付く違和感。解消されない不快感が大きな塊となり、春香の胸につっかえている。

 

「あのさ、何で鏑木くんがここに――」

 言った瞬間、春香の心臓がドクン、と大きな音を立てて脈打った。

 

 自分の見てきた光景が、スライドショーのように次々と頭の中にフラッシュバックする。

 

 ドクン。ドクン。ドクン。

 

 鼓動に合わせて切り替わっていく脳裏に映し出された映像。その時、その瞬間を鮮明に映

し出している、それはまるで写真のような自分の記憶。

 

 嫌な予感がした。何か見てはいけないものを見てしまったような、思い出してはいけないも

のが出てきてしまうような気がした。

 

 やめて、もうやめて――。

 

 頭を抱え込んで座り込む春香。だが肉体は彼女の意思を拒絶し、春香が”なかったもの”

として処理した記憶まで呼び起こしてしまう。

 

「宴町、どうかしたのか?」

 異変を察知した大悟が駆け寄ってくる。春香の身を案じる言葉をかけてきてくれるが、それ

は彼女の耳に入っていても頭にまでは届いていない。

 今までのそれよりも長い間隔を空け聞こえてくる心臓の鼓動。全身の体温が一瞬で奪わ

れていくのが分かった。ああ、ダメだ。これは見てはいけないものだ。誰か。誰か助けて。誰

か私を止めて。誰か、誰か――。

 

 鼓動と同時に切り替わる映像。映し出される光景――広がる赤。春香の全感覚を埋め尽

くす、真っ赤な真っ赤な光景。

 

 緑の中に広がる赤い海。その中心に浮かんでいる、その人は――。

 

「あ、あああああああああああ!!」

 宴町春香の意識を支配する、逆瀬川明菜の凄惨な死体。慕い、憧れていたクラスメイトの

あまりにも無残な姿を目にして、まだ幼い少女の心がそのショックに耐えられるはずもなか

った。

 

「いや、いやぁ……あああっ、うああああああああああ!!」

 ギリギリのところで保たれていた平静は崩壊し、土石流のように押し寄せてくる恐怖と混乱

の前に春香は抵抗する術もなく呑み込まれていった。

「おい、宴町! 聞こえているか!? 落ち着け、ここには怖いものなんて何もないんだ!」

「明菜ちゃ……ひ、あああっ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! もう嫌ぁあああああ!!」

 

「宴町っ!!」

 大悟は両腕を広げ、小さな春香の体を強く抱き締めた。

「大丈夫……もう大丈夫だから。もう怖がらなくてもいい。泣かなくてもいいんだ」

「あ、あああ……」

 春香は何が起きているのか分からないみたいだったけれど、自分のすぐ側に誰かがいて

くれているという事から安心が生まれたのか、次第に声を静めていった。絶叫は治まって嗚

咽に変わり、大悟の背中に小さな手がゆっくりと回っていく。

 

 お互い抱き合う形のまま、春香は大悟の胸の中でしばらく涙を流した。生まれて初めて父

親以外の異性に抱き締められている。そこには乙女心に予想していた感動も緊張もなかっ

たけれど、とても心地よい安心感があった。

 

【残り30人】

戻る  トップ  進む





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送