03





 全身の感覚と神経が鋭敏になる。心臓の鼓動が早くなる。体の底から湧き上がる、言葉に

できない衝動。蛇とか虫とか、そういった気持の悪いものが胸の奥で蠢いているような不快感。

「うう……くっ……」

 一度この”症状”が出ると、それを抑え付けるのは容易なことではなかった。やってはいけな

いことだと頭では理解しているのに、身体と本能はただひたすらそれを求めている。檻から出

ようと暴れている猛獣のように、琴乃宮涼音(女子4番)の中に巣食っている魔物はその強大

な力を容赦なく涼音に向けていた。

 

 涼音は自室のベッドの上で身を縮めるようにして座っている。両手で自らの身体を強く抱きし

めているその姿は、見えない何かを必死に堪えているように見えた。涼音の身体はガクガク

震えており、その口からは時折呻き声のようなものが漏れている。額には薄っすらと冷や汗が

浮かんでいて、正常な状態ではないということは誰の目からでも明らかだった。

 

「ううっ……あああっ……!」

 早く静まってくれという涼音の願いも空しく、彼女の内の”衝動”は一際強くなるだけだった。

神経は研ぎ澄まされ、空気の流れや心臓が脈打つ音まではっきり感じ取ることができる。鋭敏

になっていく感覚と比例するかのように、涼音の衝動も激しさを増していった。

 この感覚に痛みはない。あるのはただ”辛さ”だけだ。麻薬中毒者に表れる禁断症状によく

似ている。これに襲われているとき、涼音は自分がどうしようもなく惨めで矮小な存在だと思っ

ている。人の目から隠れ、薄暗い部屋の中でこんな目に遭っている――。友人の村崎薫(女子

15番)や、周りの人間には内緒で付き合っている桐島潤(男子6番)にはこんな姿、到底見せ

られるものではない。

 

 時間が経つにつれ、忌々しい衝動は徐々にその動きを弱めていった。自制に全ての力を向

けていた涼音にようやく余裕が生まれる。火照った身体を冷やすかのように荒い呼吸を繰り

返し、やがて完全に衝動が治まるとそのままベッドに寝転んだ。

 見慣れた自室の天井を眺めながら、涼音はゆっくりと呼吸を落ち着けていった。胸に手を当

ててみると、早まっていた動悸も今や落ち着きを取り戻していた。

 

 この衝動に襲われるのは今に始まったことではないが、どうも最近はその間隔が短くなって

いるような気がする。以前は一ヶ月に一回あるかないかくらいだったのに、今年に入ってから

は週に一回、最近では三日に一回くらいのペースになっている。それだけならばまだいいのだ

が、涼音にとって問題なのは衝動の強さが大きくなっているということだ。特に今やってきたの

はとてつもない強さだった。こんな強さの衝動に襲われたことなんて今まで一度もないのに。

 

 今回は何とか耐え切ることができたが、次回のことを考えるとぞっとする。またアレに耐え抜く

ことができるのかも分からないし、何より薫や潤の前であれ程の衝動がきたらどうなってしまう

だろうか。自分の内側が、ずっと秘密にしてきたことが明らかになってしまう。そうなってしまっ

たら自分は居場所を失い、人目を避けて生きていかなければならないだろう。

 

 今の生活。大切な友人たち。涼音にとってはどれも大切で、絶対に失いたくないものだった。

薫や潤が自分から離れていってしまうなんて、そんなのは絶対に嫌だ。

 

 いっそのこと、以前のように衝動に身を任せてしまおうか?

 無理に我慢をせず、アレが出てきたら近くをうろついているもので代用すればいい。そうすれ

ば衝動の強さも襲われる間隔も弱くなるだろうし、何よりも薫や潤の前で出てきた場合、彼らに

その矛先を向けなくて済むかもしれない。前のようにちょっとした騒ぎになるかもしれないが、

まさかその犯人が自分だとは思われないだろう。

 

 色々と考えてはいるが、結局のところ『我慢する』か『我慢しない』の二択しかなかった。医者

に行って診てもらおうとも思ったが、鼻で笑われるか異常者扱いされるかのどちらかしかない

だろう。もし自分が医者で、自分と同じ状態の人間がやってきたとしてもそういう対処を取るだ

ろうし。

 

 ――何で僕がこんな目に遭っているんだろう。

 

 幾度となく考えてみたことだが、やはりその答えは出てこなかった。ただ単に運が悪いだけ

なのかもしれないが、そう考えたところで納得できるはずもない。もしこの世に神様がいるのな

らば文句の一つでも言ってやりたいところだ。

 自分はこれからどうなってしまうのか。涼音は未来のことを考えるたび、とてつもない不安に

襲われる。こんな自分が幸せになれることなんてあるのだろうか。一生、この得体の知れない

衝動に縛られたまま生きていかなければいけないのだろうか。

 

 

 

 ピンポーン。

 

 

 

 不意に聞こえてきた玄関のチャイムの音が、泥沼に沈んでいた涼音の思考を現実へと引き

戻した。涼音は枕元の目覚まし時計に視線を向けた。いつの間にか二時を回っている。学校

に行っているときはそうは感じないが、家にいると時が経つのが早い気がする。

 学校――そういえば結局、学校には行かずサボってしまった。本当は具合が良くなってから

登校するつもりだったけど、そのまま寝てしまって起きたときには正午を回っていたから行くの

をやめたんだっけ。薫や潤などには悪いことをしてしまったが、無理をして学校に行っていた

場合は教室で衝動が出ていただろう。結果だけ見れば学校へ行かなかったことがいい方向

へと働いていた。

 

 涼音は気だるげな動きでベッドから起き上がり、そのまま玄関へと向っていく。今の涼音は

黒のチュニックワンピースにジーンズパンツという格好だった。昼に起きたとき、面倒くさがら

ず着替えておいて正解だったかもしれない。

 一階へ降りたとき、もう一度チャイムが鳴った。誰だろう。もしかして何かの勧誘だろうか?

そう思った涼音の耳に、三度目のチャイムと共に聞き慣れた声が飛び込んできた。

 

「あの、誰かいませんか?」

 まだ幼い、可愛らしい女の子の声が扉の向こうから聞こえてきた。チャイムを鳴らした人物

の正体を知り、涼音はわずかに口元を緩める。

 玄関の扉を開くと、昼下がりの眩しい陽光が家の中に差し込んできた。涼音は眩しそうに目

を細め、太陽の光を背に立つ幼女に「こんにちは」と挨拶をする。

 

「今日は早いんだね、刹那ちゃん」

 家から出てきた涼音を見て、サンダルに白いワンピース姿の幼女は驚いたとも呆気に取ら

れたとも取れる表情を浮かべている。この幼女、黒崎刹那は涼音の家の近くに住んでいる女

の子だ。今年で五歳という年齢の割には非常に大人びており、考え方などは同年齢の子たち

と比べていると頭一つ抜け出ている。特筆すべきはその記憶能力で、彼女は一度見聞きした

ことを忘れるということがない。本を読むのが好きらしいのだが家にある本はほとんど読み尽

くしてしまったらしく、様々な種類の本を持っている涼音のもとへ遊びに来ることが多かった。

 

「涼音お姉ちゃん、学校はどうしたの?」

 刹那が先程見せていた表情の正体は、まだ学校があるはずの時間帯なのになんで涼音が

家にいるんだろう? というものだった。刹那は涼音の家で彼女が帰ってくるのを少し待つつ

もりだったのだが、実際に行ってみたら本人が出てきたので驚いてしまったのだろう。

「今日は具合が悪かったから学校を休んだんだよ」

「えっ……具合が悪いの? 大丈夫?」

 刹那は心配そうな顔で涼音を見上げた。この子は自分のことに関してはあまり気を配らない

のに、他人のこと――こと自分のことに対してはかなり敏感に反応していた。涼音が嬉しそう

な顔をすれば刹那も嬉しそうにするし、涼音が不機嫌になれば刹那はその感情を汲み取って

今にも泣き出しそうになる。そのため涼音はいろいろと苦労することがあったが、刹那と一緒

にいるのは嫌いではなかった。

 

「大丈夫。少し寝たら治っちゃったから」

 そう言って刹那のおかっぱ頭を撫でてやる。彼女は照れくさそうな、嬉しそうな表情を浮かべ

ていた。

「いつまでもそこにいたら暑いから、家の中に入ろうか?」

「うん」

 こくりと頷いて、刹那は一足先に玄関の中に入っていった。だがいつものように涼音の部屋

に進もうとせず、靴を並べようとしたままの体勢でじっと涼音を見ている。

 

「どうかした?」

 言ってすぐに、涼音は刹那が自分ではなく、自分の背後にあるものを見つめているんだとい

うことに気がついた。彼女の視線を辿るように自らも視線を移すと、自宅の玄関の前に黒塗り

のセダンが停車していた。夜の繁華街ならばともかく、昼過ぎの住宅街では目立つことこの上

ない。

 

 セダンの扉が開き、車の中から高価そうなスーツを着ている金髪の男性が降り立った。着崩

したスーツの胸元には金色のネックレスが覗いており、その表情は黒いサングラスに遮られて

はっきりとは読み取れない。だが涼音はその人物が一般人ではないということをすぐに悟った。

彼が纏っている空気、佇まい、そのどれを取っても自分たちのものとは違う印象を受けたから

だ。もっとはっきり言えば威圧感、だろうか。彼の出現によって周囲の空気が一気に重みを増

したような、そこにいるだけで息苦しさを感じてしまうほどの威圧感。特に目立ったトラブルに

遭遇せずに生きてきた人間がこれほどのオーラを持っているとは思えない。

 

 金髪の男は涼音の姿を見つけると、一直線に彼女のもとへ向っていった。その瞬間、男が

ニヤリと笑ったような気がした。

「琴乃宮涼音……だな?」

 低いが聞き取りにくいということはまずない、男の印象に相応しい渋い声だった。

「そうですが、僕に何か用でも?」

「休養中のところ悪いが、今すぐ制服に着替えて俺たちと一緒に来てもらおうか」

 間近で見ると、遠目で見る以上に嫌な雰囲気を持つ男だった。サングラス越しだというのに、

その眼差しから暴力的な匂いが漏れている気がする。

 

 涼音はこれと似た眼差しを知っていた。自分のクラスメイトであり、静海市最大の不良チーム

『レギオン』のリーダーである真神野威(男子15番)と、何でもありの喧嘩なら市内最強と言わ

れている渡良瀬道流(男子18番)。彼ら二人が”本当に”キレたときの眼差しとこの男の眼差し

はとてもよく似ていた。何よりも純粋な暴力を宿した危険な瞳。正面からはっきりと見てはいな

いが、きっとこの男もそういう類の眼をしているんだろう。

 

「なぜついて行かなければいけないのか、理由を教えてもらえませんか?」

「悪いがそれはまだ言えないな。言って抵抗されたら面倒なんでね。車内でならば少しくらい事

情を話してやることもできるが」

 男はそう言って唇の端を吊り上げた。

「忠告をしておくが、あまり意地を張らん方が身のためだ。ここに来る前に刀堂という奴の所へ

行ったんだが、ついて来る気配は無いし、抵抗をするので手荒な手段をとらせてもらった」

 刀堂……もしかしてそれは、自分と同じクラスの刀堂武人(男子10番)のことだろうか? 涼

音が覚えている限り、自分の知り合いで刀堂という苗字の人物は彼一人だけしかいない。知

り合いと言っても会話をしたことは一度もないし、お互いの交友関係は皆無なのだが。

 

「貴様もスタンガンをくらうのは嫌だろう?」

 そう言っている男の口調は楽しんでいる以外の何者でもなかった。どうやら彼は本当に武人

を拉致したらしい。だがそうなるとますます自分が連れ出される理由が分からなかった。スタン

ガンを使って昏倒させてまで自分を連れ出し何をしようというのだろうか? それはまだ分から

ないが、一つ言えることは単純な誘拐なんかではないことは確かだ。

 

 そこで涼音は初めて認識した。その男がスーツの胸元に付けている桃色のバッチを――政

府関係者であることを示すものの存在を。

 同時に涼音は全てを理解した。全ての点が線で繋がり、自分が連れ出されなければいけない

理由が――その先に待つ最悪の答えが見えてくる。

 

「安心しろ。こういう目に遭っているのは何も貴様だけじゃない。貴様のクラスの連中全員が似

たような目に遭っている」

 ――やはり、そうか。

 かすかな望みを抱いていたが、それも木っ端微塵に砕け散った。クラス単位での拉致、その

対象が中学三年生。ここまでヒントが出れば、答えが何なのか分からないという人間はこの国

にはいないだろう。

 

 思いっきり顔をしかめ、舌打ちをしてやりたい気分だった。自分の日常は今この瞬間をもって

消滅したということになる。絶対失いたくないと思っていたものが、自分の眼前で音を立てて崩

れていってしまう。

 

 

 

 涼音が心の中で描いていた悪夢は、現実になった。

 

 

 

「ついてこないというのなら仕方がない。気が引けるが――後ろのお嬢さんに痛い目に遭って

もらおうか」

 男は腰に吊るしたシースからナイフを引き抜き、手で弄びながら言い放った。

 彼の視線の先には、怪訝な顔でこちらを眺めている刹那の姿があった。

 涼音は戦慄で顔を引きつらせる。この男の口調から冗談だということは感じられない。こいつ

は本気だ。本気で無関係の刹那を殺そうとしている。

 

「貴様が無関係のあのお嬢さんを殺し、未来を奪った。貴様が原因であの子が死ぬんだ。床を

血で染め、苦しみながらな。そうなることが嫌だったら俺と共に来い。それともわずかな望みに

全てを賭け、俺のもとから逃走してみるか? それを選ぶのは貴様だ、琴乃宮涼音」

 男は手にしたナイフをピザでも扱うかのようにくるくると回転させ、その後ナイフをシースに収

める。そして再びナイフを取り出し、回転させてシースに戻す。男は涼音が口を開く直前まで、

この行動を繰り返していた。

 

「無関係の国民を殺す……それが政府のやり方ですか」

 何とか怒りを押し殺して言った涼音に、男は肩をすくめて「俺個人のやり方さ」と返した。

「なに、貴様が黙ってついてくれば全ては済む話だ。そうすればあの子は傷つけんよ」

 涼音は一瞬だけ後ろを振り返った。幼い刹那の瞳が自分をじっと見据えている。無垢な瞳が

涼音の心を締め付ける。

 

「……部屋に戻って制服に着替えてきます。少し待っていてください」

 

 選択肢はなかった。

 そう言う他になかった。

 刹那の命を犠牲にするなんてこと、自分には――。

 涼音は刹那が待っている玄関へと入り、開けっ放しになっていた扉を閉めた。そのまま扉に

もたれかかり、深く溜息をつく。

 

 

 

「涼音お姉ちゃん、あの怖い人に何かされたの?」

 刹那の呟きが聞こえ、涼音は視線を落とした。刹那が自分のすぐ傍まで近寄っていて、ぎゅ

っと涼音の手を握り締めている。

「ううん、何もされていないよ。ほら、どこにも怪我はないし」

「でも……どこかへ行っちゃうんでしょ?」

 黒曜石のように綺麗な瞳が、不安と悲しみを宿して涙ぐんでいる。

 涼音は刹那の髪を優しく撫で、抱きしめた。

 

「大丈夫……すぐに帰ってくるからね。クラスのみんなと、ちょっと遊びに行ってくるだけだから」

「本当……?」

「うん、すぐに戻ってきて刹那ちゃんと遊べるようにするから。だから安心して」

 刹那の眼差しと温もり。それは友人たちと過ごしているときの感覚ととてもよく似ていた。心の

底を温かさが満たしてくれるような、とても心地の良い感覚だった。

 

 刹那のもとに戻ってくる。それは友人の薫たちや、涼音にとってとても大切な人である潤を犠

牲にしなければいけないということを、涼音は痛いほどよく理解していた。

 

【残り36人】

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