02






 窓の外から聞こえてくるセミの鳴き声に、村崎薫(女子15番)は鬱陶しそうに眉をしかめ

た。先程から聞こえてくるのは授業中だというのに相変わらず騒いでいるクラスメイトの声

と、何か恨みでもあるのかというほどの大音量を発しているセミの鳴き声ばかりだ。

 

 いつもならば授業中に行われる雑談の中心にいるはずの薫だが、今日に限っては珍しく

その輪に入らず、授業が開始されてからずっと机に向っていた。教科書とノートを開き、

黒板に書かれた文字をノートに写しながら先生の話を聞く。学校ではごく自然な、というよ

りも当たり前の風景であるが、薫の場合になるとそれは”当たり前”に当てはまらない。授

業中の彼女は、近くにいる友人と私語をするか机に突っ伏して爆睡しているかのどちらか

だ。そのため、薫が授業中まともに勉強をしているほうが珍しいということになっている。

 

 ただそれは何も薫に限ったことではない。このクラス――いや、この学校では真面目に

授業を受けている生徒とそうでない生徒の割合がちょうど半分ずつという、一歩間違えた

ら学校そのものが機能しないのではないか、とまで言われている学校だった。

 

 そう言われる要因としては、薫の通う静海中学校が他の中学校と比べ、不良生徒が在

籍する割合が他校よりも高いというものが挙げられるだろう。無断欠席は当たり前、遅刻

してくればまだマシ、といった悲惨な現状だった。校内の窓ガラスを割って歩いたり、バイ

クを乗り回す生徒がいないのが不幸中の幸いかもしれない。危険視されている生徒は多

数いるが、そういう生徒はおおむね出席率が格段に低い。学校側からしてみれば、問題

児を無理に登校させて問題が起こるよりも、あえて目を逸らすことで問題を回避するとい

うやり方のほうが受けがいいのかもしれない。それが正しいのかどうかは別として、だが。

 

「うー……」

 順調に、とまではいかなかったが、いつもに比べれば格段に動いていた薫のシャープペ

ンがついにその動きを止めた。続いて大きな溜息をつき、いつものように上半身を机の上

に横たえる。いつもならこのままぐっすりと寝てしまうところだが、今日ばかりはどうも寝れ

そうになかった。

 

「も、もうダメ――ギブアップ」

 そう呟き、ぐったりとしたまま動かなくなる薫。それほど大きな声で言ったつもりはなかっ

たが、前の席の黛真理(女子13番)と隣の席の渡良瀬道流(男子18番)にはしっかり聞

こえていたらしい。

「四時間目の終了直前か……やっぱ今日も一日持たなかったわね」

「始めから無理があったんだよな。だいたい薫って普段から勉強してないじゃん。付け焼刃

でテストに望んだって結果が出るわけねえよ」

「な、何よ何よ二人してー! そんなのやってみなけりゃ分からないじゃない! 始めから

諦めるなんてみっともない真似、この薫ちゃんには相応しくないわ! 為せばなる、為さね

ばならぬ、何事も!」

 拳をぐっと握り締め、授業中だというのにも関わらず大声で叫ぶ薫。たが驚いているの

は教師だけで、クラスメイトたちは視線すら向けない。薫がこういうことをするのはもはや

日常茶飯事になっているらしい。

 

 薫が真面目に勉強をし始めた(といっても今日からだが)のには理由がある。彼女は中

学生としての時間のほとんどを遊ぶことに費やしており、勉強にはほとんど手をつけてい

なかった。そのために定期テストは毎回悲惨、というか無残な結果に終わっている。

 子供の自主性を重んじているのか娘を縛りたくないのかは定かではないが、薫の両親

はそれまでテストの成績で彼女に辛く当たるということはなかった。しかし今年は薫も中学

三年生、冬には受験を控えた身である。それなのに赤点が当たり前、酷いときには全教

科赤点ではさすがにヤバいだろうということになり、薫の両親は『テストで一つでも赤点が

あったらお小遣い抜き』という、薫にとっては非常に厳しい要求を付き付けた。

 

 当然の如く薫は断固拒否をしたが、その日の夕食が自分だけおにぎり(ちなみに両親は

ステーキだった)という拷問のような仕打ちを受けたため、その要求を受け入れざるを得な

かったのである。

 

 結果として薫は、間近に迫っている期末テストに向け猛勉強を開始した。真面目に勉強

をし始めて一週間が経過しようとしているが、勉強をするということ自体に慣れていないの

か、四時間目辺りになると決まって限界が訪れていた。

 それに付け加えて今は七月。夏の到来ということで、気温の高さも半端ではなかった。

照りつけるような太陽に身を焼かれながら勉強をするなんて考えただけでも頭が痛くなる。

勉強を放り出して遊びに熱中していたいというのが本心なのだが、そうも言っていられな

い状況に置かれているので薫は泣く泣く机に向っていた。

 

「言ってることは正しいんだけど、薫が言うとなんだか薄っぺらく聞こえるわね」

「テストの成績が毎回毎回カレイみたいだしな」

「へ? どういうこと?」

 道流が発した”カレイ”という言葉に、薫は頭上にクエスチョンマークを浮かべる。確か今

日の給食はカレーだったはずだが、それが自分のテストと何か関係があるのだろうか。

「いっつも地面スレスレを泳いでいるってことだよ」

「ああ、なるほど……って何言ってんのよもう! 私そんなに頭悪くないよ!」

 学力が自分と似たり寄ったりの道流に正論を言われるのがこれほど頭にくるとは思わな

かった。薫は手足をばたつかせて全身で感情を表現するが、「村崎、静かにしろ!」とい

う教師の言葉で急におとなしくなってしまう。

 

「うう、何で私ばっかり……」

 そもそも学生の本分である勉強を、こういった形でしかやろうとしない薫に大きな問題が

あるのだが、彼女にはその自覚が全くと言っていいほどなかった。

 

 

 

 

 

 授業の終了を告げるチャイムが鳴り、それと同時にクラスメイトたちは思い思いの行動

をし始める。四時間目が終わったため、次に訪れるのは生徒たちが待ち望んでいた給食

の時間だ。今週の給食当番である鏑木大悟(男子5番)桐島潤(男子6番)小林良枝

(女子5番)佐伯法子(女子6番)が白いエプロンを身につけ、給食の準備に取り掛かろ

うとしていた。

 

「潤、何やってんだよ。早く行こうぜ」

「ちょっと待ってよ。そんなに急いだって給食は逃げるわけじゃないんだから」

「そういうことじゃねーよ。俺もう腹へってさぁ、さっさと用意して早いとこ食べたいんだよ。

それに今日の給食カレーだろ? 冷めちまったら台無しだしな」

 大悟は男子バスケ部の部長を務める大柄な生徒だ。豪快な性格で人当たりがよく、多

くの後輩から慕われている。その大悟の隣にいるのはこのクラスの男子学級委員、桐島

潤だ。ケンカや争いごとが大の苦手で、不良が多いこの学校の中では下手をしたらイジメ

のターゲットになりかねない少年である。しかしそれ以上に優しい性格をしているため、彼

が誰かから嫌われる、イジメを受けるということはまず有り得なかった。クラスの男子の中

では一番背が低く顔も中性的なため、男らしい顔立ちの大悟と歩いていると兄と妹に見え

なくもない。

 

 大悟と潤がワゴンを取りに行くと、教室に残った良枝と法子は給食が入っている容器を

乗せるための台を用意し始めた。会議机のような形をしたこの台は各教室に一つずつ備

わっている。これを用意するのはだいたい力のない女子生徒の役目だった。

 

「佐伯さーん、そっちちょっと右に動かしてくれる?」

「こう?」

「オッケーオッケー。ありがとねー」

 良枝は陸上部に所属しているボーイッシュな容姿の少女で、法子は髪をやや茶色に染

めているクールな少女だ。こちらも大悟と潤同様、性格が正反対な組み合わせである。

 大悟、潤、そして法子。彼らはクラスの主流派メンバーとして数えられていた。主流派と

言っても個性の強いこのクラスのまとめ役みたいなもので、彼ら三人の他に春日井洸(男

子4番)鈴森雅弘(男子8番)茜ヶ崎恭子(女子1番)琴乃宮涼音(女子4番)夕村琉

衣(女子18番)など、学年でも有名な生徒たちが名を連ねていた。薫もそのグループの

一員で、学校の内外問わず彼らと行動を共にすることが多い。

 

 そして固定メンバーというわけではないが、渡良瀬道流もグループの輪に入ることが多

かった。道流は不良としてその名を轟かせているが、普段はとても親しみやすい態度の

ため、誰も彼が一緒にいるということに異を唱えようとはしなかった。もともと気の合う奴

同士が集まっているグループなので、道流のことをどうこう言う気なんて最初からなかっ

たのかもしれないが。

 

 数々の問題を起こしているために道流は凶暴で怖い人物と思われがちだが、実はそう

ではないということを、薫を含めたグループのメンバー全員が知っていた。道流は他の不

良生徒と違いイジメやカツアゲに代表されるような、弱いものを傷つける行為は絶対にし

なかった。一緒にいると楽しいし、女性にはとても優しい接し方をしている。

 

 そういえば、今日はまだ涼音の姿を見ていなかった。彼女の双子の姉である琴乃宮赤

音は「あいつなら軽く貧血気味だから、家でしばらく休んでから行くってよ」と朝出会った

時に言っていたが、この時間になっても来ていないということは、もしかしたら今日学校を

休むのかもしれない。涼音とはとても仲が良いし、授業で分からないところは成績の良い

涼音に聞くようにしていたので彼女が休んでしまうのは残念だった。

 

 ――でも、身体の具合が悪いんじゃしょうがないか。

 ノートや教科書などの勉強道具を机にしまった薫は軽く背伸びをし、その後で何度か両

肩を叩いた。気のせいなんだろうけど、やけに身体が凝り固まっているような気がする。

体育の時間の徒競走でもあまり疲れないのに、少し勉強をしただけでここまでの疲労感

が出てくるというのもおかしな話だ。

 

 改めて教室の中を見渡してみると、ほとんどの生徒は既に給食の準備を終えてしまって

いる。篠崎健太郎(男子7番)高槻彰吾(男子9番)本庄猛(男子14番)の野球部三人

組は教室の入り口近くで雑談をしていた。彼らは多分、容器の乗ったワゴンが来たらすぐ

に並べるようにあの位置にいるのだろう。そういえば、三人の中ではリーダー格の彰吾が

カレーが大好物だった気がする。

 

 運動部系のグループはその他に、小林良枝、橘千鶴(女子8番)遠野美穂(女子9番)

から成る女子運動部がある。このグループは健太郎たちとは違って常に一緒にいるわけ

ではなく、何かあったらこの三人で集まる、といった感じのグループだ。運動系のグルー

プでは珍しく結束力に欠けていると言ってもいい。

 

 薫のクラス、三年一組には運動部に所属している生徒が多い。その中でも最も多いの

はテニス部に所属している生徒だ。このクラスの中では宴町春香(女子2番)、副部長を

務めている逆瀬川明菜(女子7番)桧山有紗(女子11番)御剣葉子(女子14番)安川

聡美(女子17番)の計五人がテニス部に所属していた。テニス部は部員の結束力が強く、

彼女ら五人も常に一緒に行動している。美少女だが自分勝手な有紗や、まだ小学生っぽ

いところがある聡美がいるために何かと騒ぎを起こすことが多く、メンバーをまとめ上げて

いる明菜は大変な苦労をしているようだった。

 

 ああいう様子を見ていると、薫は自分も何か部活に入っていたほうが良かったかな、と

思ってしまうときが時々あった。薫は遊ぶことに全力を尽くしていたので、面倒なことが多

そうな部活動をしようとは思わなかった。ただ最近になって、自分と同じものが好きなメン

バーたちと共通の目標に向って努力する、というのも悪くはないんじゃないかと薫は思う

ようになっていた。試合で良い成績を収めて部活の仲間と喜んでいる生徒を見ると特に

そう思ってしまう。

 

 

 

「村崎さん、勉強はかどってる?」

 突然かけられた声に顔を上げると、そこにはクラスメイトの永倉歩美(女子10番)が立

っていた。背が低く痩せているために繊細なイメージを受けるが、彼女は矢井田千尋(女

子16番)の――少し崩れた、いわゆるギャル系の女子生徒で構成されているグループの

メンバーとして数えられている。あとは少しナルシストが入っている辺見順子(女子12番)

派手な金髪の片桐裕子(女子3番)などがいる。歩美以外の三人はファッション雑誌を広

げながら楽しそうに会話をしていた。その後ろの席にいる二階堂平哉(男子12番)が眉を

ひそめて不快感を露にしていたが、彼女たちはそんなことはお構いなしといった様子で話

を続けている。平哉と千尋はお互いを嫌悪し合っており、会話はおろか顔も見たくないと

いうくらい仲が悪かった。今のところ陰で悪口を言い合っているだけで直接対峙しての喧

嘩には発展していないが、そうなってしまうのも時間の問題だろう。

 

 薫は手を左右に動かして、「ぜーんぜんダメ」と半ば開き直った感じで答えた。

「ちゃんと授業受けていても、何言っているのか全然分からないんだもん。認めたくはない

けど、みっちゃんが言っていた『付け焼刃でテストに望んだって結果が出るわけない』って

のは正しいかも……」

「渡良瀬くん、そんなこと言ってたの?」

「うん。みっちゃんって頭そんなに良くないのにたまーに正論を言うんだよね。しかもみっ

ちゃんって不良でしょ? なのにそういうことを言われるのってどうも……」

「ああ、それは確かに理不尽な感じがするわね」

 薫としては何か反論してやりたいところなのだが、言っていることが正しいため何を言っ

ても勝てない気がした。これが鈴森雅弘だったら、同じ状況でも軽く道流をあしらってみせ

るのだろうけど。

 

「でも別にいいんじゃない? 村崎さんは村崎さんのやりたいようにやればいいと私は思

うけど」

「歩美ちゃん…………。うん、ありがと。頑張って勉強して赤点減らして、みっちゃんをあっ

と言わせてやるんだから!」

 先程まで落胆していたのが一転、薫は明るい笑顔を取り戻して歩美と握手を交わした。

突然のことに歩美は少しうろたえているようだが、特に嫌そうな様子は見せず苦笑いを浮

かべていた。薫のテンションは浮き沈みが激しいので、歩美のようなおとなしい性格の人

間にはついて行きづらい部分がある。

 

 歩美と会話をしている間に教室の扉が開き、四人の男子生徒が教室の中に入ってきた。

彼らが現れた瞬間、ほんの一瞬だけだが喧騒に包まれていた教室がしんと静まり返った。

その後ですぐに元の様子に戻ったが、教室に漂う空気は以前に比べて格段に重くなって

いた。

 

 

 

 教室に入ってきた――正しく言えば今になって”登校”してきた四人は、真神野威(男子

15番)が率いる不良グループのメンバーたちだった。威はここ一帯で最大勢力を誇る不

良チーム『レギオン』のリーダーに位置する生徒で、自分に敵対するものは徹底的に排除

する考えを持った非常に恐ろしい生徒だ。その力は高校生を易々とねじ伏せ、チームの

組織力はそこらにある暴力団を軽く超えるとも言われている。体格に恵まれているわけで

はなく、身長もそれほど高くはないが、ケンカの実力で言えばあの道流に匹敵するとまで

言われていた。よく道流と行動を共にしている薫は威と道流がケンカをする場面を何度も

見ているが、はっきりとした決着がついたことは一度もなく、結局どちらが強いのかは薫

にも分からないままだった。

 

 萩原淳志(男子13番)麻生竜也(男子1番)糸屋浩之(男子2番)は威の側近のよう

なもので、四人一緒に行動していることが多い。威の強さばかり目立ってしまうことが多い

が、この三人もかなり喧嘩が強い。二、三人の高校生が同時にかかってきても、それを苦

とせず返り討ちにしてしまうほどらしい。

 

「お、ちょうどよく今から給食みたいだぜ」

「でもワゴンはまだ来ていないみたいだな」

「ケッ、気が利いてねぇなあ。とっとと持ってこいってんだよ」

 竜也はぶつくさと文句を言いながら、野球部三人組を無理矢理払い除けてすぐに給食

がもらえる位置に移動する。健太郎たちの目には怯えと嫌悪が入り混じっており、不愉快

さを無理矢理押し込んでいるように見えた。

 

 だが彼らは何も文句を言わず、そのまま自分たちの席へと帰って行く。竜也たちに口ご

たえをしたものがどんな目に遭うのか、それを充分に理解しているからだ。相手が淳志な

らまだ恫喝だけで済むかもしれないが、喧嘩っ早い竜也では言葉よりも先に拳が飛んで

くるに決まっている。竜也たちのやり方に納得しているわけではないが、彼らのしたことに

異を唱えれば暴力で返ってくるということは分かりきっている。自分たちが傷つくのを恐れ

ている健太郎たちは、彼らの横暴に対してただじっと耐えているしかなかった。

 

「真神野くんたちがこの時間に来るなんて珍しいね」

「たぶん給食だけ食べにきたんじゃない? そうすれば食費も浮くし」

「あ、なるほど。さっすが歩美ちゃん、あったまいいね」

 薫は心の底から感心したような表情でそう言った。ちょっとしたことでもオーバーに反応

するのが彼女、村崎薫である。歩美はそんな深い意味を込めて今の言葉を言ったわけで

はないので、複雑な心中にさせられることこの上ない。

 

 そんなことをしているうちに、当番の潤たちが容器の乗ったワゴンを持ってきた。大悟が

今日のメインであるカレーの容器を運び、潤が野菜やデザートの容器を運ぶ。それぞれの

腕力の差を考えた見事な役割分担だった。

 

「おい鏑木、さっさと用意しろよな。こちとら腹減ってんだよ」

 既に列の戦闘を陣取っている竜也から文句が飛んでくるが、大悟は慌てることなく白い

ご飯の入った容器にカレーをよそっていく。

「おい淳志、俺の分も持ってきてくれ」

 まるで王のような悠然とした態度で席に座っている威が、竜也の後ろに並んでいる淳志

に声をかけた。淳志は嫌な顔一つせずに「分かった」と返事を返す。

 

「ズルいなあ。自分で並べばいいのに」

 薫は威たちに聞こえないように、小さな声で不満を漏らす。健太郎たちや他の多くの生

徒と同じように、薫も彼らの勝手なやり方に不満がないわけではない。しかし薫もまた、そ

れをはっきりと口に出せないでいる。

 年齢は自分たちと変わらないのに、何で威はあんなに偉そうにしているんだろう。一つ

の組織を統べているというのがそんなに偉くて凄いことなのだろうか。何度か考えてみた

ことではあったが、何度考えてもその答えは出てこなかった。

 

 威のことで不満は残るが、今はそんなことよりも給食の方が大事である。 薫はその考

えを早々に消し去って、給食をもらうために自分もその列へ並びにいった。

 

 

 

 何事もなく配膳は終わり、自分の分の給食を受け取った生徒たちは席に着くなり早速食

べ始めていた。いつもならば担任の高峰政治が来てから食べ始めることが多いのだが、

今日は都合があって給食の時間に来れない、という連絡が朝のHRで本人から伝えられ

た。

 というわけで、腹を空かせた生徒たちは「いただきます」の挨拶も適当に済ませ、周りの

友人たちと雑談を交わしたり黙々とカレーを食べたりと、思い思いの昼食の光景を繰り広

げている。

 

「ねえねえ、給食のカレーってさ、家で食べるカレーよりも美味しい気がしない?」

「ああ、それは私も思う。給食のカレーって何ていうかこう、独特の味がするのよね。再現

してくても簡単には再現できないっていうか」

「そうかぁ? どっちもそんなに変わらねーじゃん。カレーはカレーの味しかしねえよ」

「それ、お腹の中に入ればどれも同じって言っているようなもんだよ」

 薫はスプーンの握られた手を動かしつつ、道流、真理、潤との会話に華を咲かせる。潤

以外の三人が賑やかなメンバーなので、教室に響く笑い声の割合の多くを薫たちが占め

ていた。

 

 薫たちの席から少し離れたところでは、洸、大悟、雅弘、恭子、琉衣の五人が楽しそうに

笑いながら食事を取っていた。話を中心に進めているのは雅弘らしく、普段はクールな態

度をとっている洸も顔を綻ばせていた。ああいう光景を見ていると、雅弘って本当に喋る

ことが好きなんだなと思う。雅弘は確かにお調子者で軽薄な部分があるけれど、誰かを楽

しませたり、落ち込んでいる人を勇気づけたり、言葉を扱うことに関しては誰にも負けない

ような気がした。「俺は口先だけで生きていけるから」とは本人の弁だが、彼ならばそれも

可能なのではないかと思う。

 

「……琴乃宮さん、まだ来ていないね」

 潤のその呟きで、薫はまだ琴乃宮涼音が登校してきていないということを思い出した。

いつもならばこの輪の中に加わって、道流や雅弘の下らないジョークにツッコミを入れてい

るか、潤と二人で話をしている涼音の姿が見られる。しかし今日は、そんないつもの光景

を目にすることはできない。あの美しい青髪が欠けてしまっただけで、三年一組の教室か

ら色彩が一気に失われてしまったように感じられた。まるでカラーテレビが白黒テレビに

変わってしまったかのように。

 

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。赤音ちゃんは具合が悪いだけって言ってたし、明日

になればいつもみたいに学校に来ているから」

 潤は「うん、そうだよね」と声を返したが、やはり涼音のことが心配なのかその顔にいつ

もの微笑みは見られない。同じ学級委員同士だからなのか、潤と涼音は主流派グループ

の中でも特に深い交友を持っていた。休日に街の書店で本を選んでいる二人を見たと言

っている生徒もいるくらだし、二人の仲は薫が思っている以上に深いのかもしれない。

 

「そういえば、刀堂の奴も今日は来てねえな」

「そんなのいつものことじゃない。刀堂くんのことだからどうせサボりよ」

 教室の中には涼音の他に、席の開いている机がもう一つあった。その席の主である刀堂

武人(男子10番)は静海中学校では珍しくない不良生徒で、気が向いたときにしか登校し

てこなかった。道流や威に及ばずとも喧嘩の実力は高く、恐喝や暴行など、ことあるごとに

問題を起こしていた。

 

 同じ不良とは言っても、武人は道流や威とはタイプの違う不良であった。仲間とつるんで

いない、という点では道流と通じるものがあるが、彼は道流のように親しくできる友人が誰

一人としていなかった。粗暴で攻撃的、誰に対しても容赦が無いという性格が仲間を寄せ

付けない要因なのだが、武人本人は特に気にしてはいないようだった。

 手当たり次第で見境無し、さらには歯止めが利かないということもあり、道流や威よりも

武人の方が要注意人物なのかもしれない。

 

「それに刀堂くんが休んでいるから、デザートのシャーベットが一つ余って私に回ってくるか

もしれないし」

 三年一組では給食に出てくるデザートが余ると、決まって立候補者を募り、デザート争奪

ジャンケン大会を行っていた。給食のデザートは一人につき一つなので、もう一ついただこ

うとジャンケンに参加する生徒は少なくない。それに今日は生徒の人気が高いシャーベット

がデザートとして給食に出ている。

 

「今日は私の好きなアップルシャーベットだし、なんとしてもジャンケンでシャーベットを勝ち

取ってみせるわ!」

 拳を握り締めて力説し、一人でメラメラと燃え上がっている真理。少し離れた席で恭子や

法子が呆れた表情でそれを見ていたが、薫や雅弘なんかは「真理ちゃん頑張れー!」と

冷やかし根性丸出しのエールを送っていた。

 

「そっか。そういやあデザートが余るんだっけ。じゃあ俺も参加するか」

「えー、みっちゃんもエントリーするの? 競争率が高くなるからはんたーい」

「おいおい、そんな酷いこと言うなよ。デザートの競争率が高くなるのはいつものことじゃん

か。どっかの馬鹿が休んでくれたらちっとは競争率も下がったかもしれないけど――」

 

 道流がそう口にした瞬間、彼の真横から学校に配備されている生徒用の椅子が道流め

がけて一直線に飛んできた。

 

「みっちゃん!」

 驚きのあまり薫が声を上げたが、道流はそれの意図するところを汲み取れなかったよう

で飛来してくる椅子の存在に気づいていない様子だった。

 

 しかし次の瞬間――薫の目に信じられない光景が飛び込んできた。

 

 道流は右手を横に突き出し、自分の死角となっている方向から飛んできた椅子を片手で

易々と掴み取った。その椅子は決して軽いものではないのに、椅子を掴んでいる道流の

腕は微動だにしない。

 その様子を見ていたクラスメイト全員が呆気に取られている中、道流は掴み取った椅子

を床に置き、椅子が飛んできた方向に目を向ける。

 

「このハイエナ野郎が……」

 道流の声は静かではあったが、聞くものを戦慄させるような、恐ろしくぞっとする声だった。

「俺はまあともかく、もし薫や真理や潤に当たったら……そん時はお前、責任取れんのか?

当然俺にぶっ殺される覚悟はできていんだろうなあ」

 先程までの道流の声とは違う、とてつもない力――恐怖と威圧感を孕んだ声だった。それ

だけで相手を震え上がらせることができてしまうような、それはもはや声ではなく一つの力

だった。

 

 だが、道流の視線の先に立っている真神野威に動じた様子は見られない。怯えるどころ

か逆に剣呑な光を瞳に宿しており、道流に勝るとも劣らない攻撃的なオーラを発していた。

 

「それは俺の台詞だ。本人に聞こえるように相手を罵る……どんなことをされても文句は言

えないだろう」

「んなこと知ったこっちゃねえんだよ真神野くんよぉー。俺はお前をぶん殴れればそれでい

いんだからなあ」

 相手の顔を睨みつつ、道流と威はお互いにその距離を縮めていった。静海市最強の少年

と静海市最大の不良チームを統べる少年。噂に違わず、各々が持つ覇気は尋常なもので

はない。それはもはや覇気を通り越し、殺気と呼んでもいいようなレベルにまで達している。

 

「毎回毎回不思議に思うが、どういう脳の構造をしていれば俺に勝てるなんて結論が出てく

るんだ?」

「テメエこそ毎度毎度くだらねえことで喧嘩売ってんじゃねえぞ、あぁ? そっちこそ俺に勝

てるとでも思ってんのか?」

「質問を質問で返すな。疑問文に疑問文で返して会話が成り立つと思っているのか?」

 道流と威はお互いの拳が届くところまで近付いていた。道流は右手を人差し指から順に

握りって拳を作り、対する威も臨戦態勢を取っている。いつ殴り合いが始まってもおかしく

ない状況だった。

 

 誰もが二人による壮絶な喧嘩が繰り広げられるだろうと思っていた矢先――。

 

「…………あ?」

 道流が、膝をついていた。

 何の前触れもなく、何のきっかけもない。

 渡良瀬道流が膝をついている。それは疑いようのない事実なのだが、一連の出来事を見

ていた薫はもとより、彼と対峙していた威ですら、なぜ道流がそんなことになっているのか

理解できていなかった。威の攻撃を受けたわけではなく、貧血に襲われたわけでもない。

まるで”過程”そのものが消失してしまったかのような異質な光景が、そこに広がっていた。

 

 彼はそのまま立ち上がろうと足に力を入れるが、がくんと体勢を崩し地面に崩れ落ちる。

あの道流が倒れるという信じられない光景を見た薫は彼に駆け寄ろうと席から立ち上がっ

たのだが、視界が溶けた飴細工のように歪んでおり、薫も道流と同じように膝から床に崩

れ落ちた。

 

「え……? な、なに、これ……」

 薫はようやくこの教室を襲っている異変に気がついた。自分や道流を含めた一組の生徒

全員が床に倒れこんでいるか、椅子にもたれかかって天井を仰いでいた。あの真神野威

ですら、うずくまるようにして床に倒れている。

 

 はっきりとした確証はないが、恐らく全員が眠っているんだろうと薫は思っていた。なぜな

ら自分も凄まじい睡魔に襲われており、目を開けているのもままならなくなってきているか

らだ。つい先程道流がいきなり倒れたのも、自分と同じように突然睡魔に襲われたからだ

ろう。

 

 薫が意識を保っていられたのはそこまでだった。自分たちのカレーに睡眠薬が混入され

ていたということに気づくはずもなく、三年一組の生徒たちは眠りに落ちていった。

 

【残り36人】

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