数時間前から降り始めた雨は勢いが衰え、今では軽い霧雨に変わっていた。

 時間帯的には夜だが、これはまるで早朝に起こり得るような天候だった。辺りはすっかり暗

くなっているが、これが早朝であれば辺り一面靄がかかったようになっているだろう。

 しかしこの天気自体はそんなに悪い気がしない。最近は全然雨が降っていなかったし、それ

に季節が夏ということもあって霧雨の涼気は不快ではなく、かえって心地よいくらいだった。

これが梅雨時の六月であれば最悪だっただろうけど。

 

 村崎薫はマンションの自分の部屋がある階の通路を歩きながら、頭の中で今日やるべき

ことの整理をしていた。二週間前に行われたプログラムの事後処理はもうほとんど終わって

いるし、提出しなければいけない書類も全て書き終えている。あとはそれらに目を通してチェ

ックすればいいくらいだろう。どうやら今日は久しぶりにゆっくりできそうだ。

 

「ああ、疲れた……まったく、相変わらず人使いが荒いんだから」

 村崎は二十代半ばの女性で、現在プログラム担当官という職に就いている。タイトスカート

のスーツ姿だからよく会社員に間違えられることがあるが、これでもちゃんと訓練を受けた

れっきとした軍人だ。銃だってちゃんと撃てるし、空手や柔道などの格闘技も習ったことがあ

るからそこらの男には負けない腕前がある。と言っても村崎自身そんなに争いごとが好きで

はないので、プライベートの中でそういう事態になるのは避けたいところだ。

 

 

 

 プログラムとはこの国、大東亜共和国に昔からある戦闘実験のことだ。こう言えば聞こえは

いいが、その中身は毎年全国の中学校から五十クラスを選抜し、最後の一人になるまで殺し

合わせるという胸クソの悪くなるような殺人ゲームだ。村崎はそのプログラムの進行役、担当

官をやっている。生徒の側からすれば自分たちをこんなことに巻き込んだ元凶のような存在

だろう。現に村崎もプログラム担当官に強い恨みを抱いていた。

 実は村崎も過去にプログラムを体験している。つまり優勝者ということになる。優勝者が担

当官になるというケースは珍しくないらしいが、村崎は自分と同じ境遇の担当官にまだ会った

ことはない。

 

 

 

 自分が住んでいる部屋の前に来ると、村崎は今の時間を確認してから玄関の扉を開けた。

「ただいまー」

 玄関で靴を脱いでいると、リビングの方から「お帰り」という声が返ってきた。着ていたスーツ

を脱ぎながらリビングに入ると、高校生くらいの少年が湯気の昇っているお椀をテーブルの上

に並べていた。

「今日は早かったじゃん」

「思っていたよりも仕事が早く終わったからね。おかげで今日は久しぶりにゆっくりできそう」

 村崎はスーツをソファの上に投げ捨てると、冷蔵庫の中から冷えた缶ビールを取り出した。

「うん、今日はちゃんと冷えているわね。感心感心」

 子供のような顔で微笑みながら缶ビールのプルを開け、どかりと椅子に座り込む。

 

「そりゃ何度も注意されてれば覚えるって」

「なんか言ったー?」

「いや、なにも」

 その少年、浅川悠介はぽつりと呟いた愚痴を慌てて誤魔化した。聞こえていないと思ってい

たようだが、どうやら村崎には聞こえていたらしい。

「悠介ー、今日のご飯ってなに?」

「シーザーサラダとメンチカツと……あと味噌汁とご飯、それと冷や奴」

 今日の夕食は悠介の独断によるものだったので、どんな文句が飛んでくるかと彼は内心

ビクビクしていた。以前村崎にリクエストなどを尋ねずエビフライを作ったら、「何で私の嫌い

なもの作るのよ」と拗ねてしまい、そのまま近くのファミレスまで行って食事を済ませた、という

ことがあったからだ。村崎の家に居候させてもらってから一年以上経つから彼女の好みはほ

とんど把握しているつもりだが、また拗ねたりしないだろうかと不安な部分がある。

 

「へえ、美味しそうじゃない。もう食べていいの?」

「ああ。ちょうど今出来たとこだし。冷めたら美味しくないからな」

 いつもならば村崎の帰りはもっと遅い時間帯だ。なので食事は悠介が先にとり、村崎が帰

ってきたら残しておいた料理を温めて食べる、ということになっている。村崎は悠介が作った

料理を美味しそうに食べてくれるから悠介も作り甲斐を感じているが、作った側としてはやは

り出来立ての料理を食べて欲しい、という思いが強い。

 

 村崎は冷えたビールを片手に、テーブルの上に並んだ料理に次々と箸を伸ばす。これも同

居して知ったことだが、村崎は悠介が思っていたよりも豪快な女性だった。着替えを忘れた

からといってバスタオル姿で浴室から出てきたりと、悠介がいることをあまり意識していない

ように思える。

 

 

 

 村崎と同じ部屋に住んでいる少年、浅川悠介は彼女の身内や従兄弟というわけではない。

彼はとある特別な事情からこの部屋に居候している身だ。

 悠介も村崎と同様、プログラムに選ばれ、そして優勝したという過去を持っている。彼は去

年に新潟県で行われた舞原中学校のプログラムの優勝者だ。それは村崎が担当官として

初めて受け持ったプログラムであり、自分の出身地である県のプログラムということでいろい

ろと感慨深いプログラムでもあった。

 

「うーん……悔しいけどやっぱり美味しい」

「何だよ、悔しいって」

「だってあんたってば料理上手なんだもん。女の私の立つ瀬がないっていうか、ちょっとだけ

嫉妬しちゃうかな」

 村崎も料理がまったくできないというわけではない。悠介が来るまではずっと一人暮らしだ

ったので自炊くらいはお手の物だ。

 だがそれも、目の前にいる少年の手際のよさの前には霞んでしまう。悠介は家族との間に

深い確執があったため、両親とはなるべく関わらないよう、自分のことはほとんど自分ででき

るようにしていたらしい。新潟に住んでいた頃は両親がいないときに台所を使って自分の食

事を作っていたらしく、掃除や洗濯なども男子高校生とは思えないほど手際が良かった。

 悠介のイメージとは全くそぐわないこの事実は、村崎にとっても凄く意外なことだった。

 

「そんなん気にするなよ。俺はあんたの作った料理、結構好きだぜ」

「そう? そう言ってもらえると私も嬉しいわ」

 村崎の提案を受け入れて東京に出てきたまではよかったが、悠介は肝心の住居のことに

ついてまったく考えていなかった。両親を失った中学生が一人で暮らして行くには大変だろう

ということで、去年の夏くらいから村崎の家に住ませてもらっている。始めのうちは当番制で

料理を作っていたが、半年くらい前からはほとんど悠介が作っていた。タダで住ませてもらっ

ているんだからこれくらいは当然、と彼は言っているが、そこまでしてもらうとかえって悪いよ

うな気もする。

 

 ――でも、実際かなり助かっているのよね。

 かかる費用は確かに増えてしまったが、村崎にかかる負担は以前に比べかなり軽くなって

いる。利益目的ではなかったが、悠介を迎え入れて正解だったかもしれない。

 

「じゃあ、明日の食事は久しぶりに私が作ろうか?」

「え、いいのか?」

「別にいいわよ。このままあんたに任せっきりってのも癪だしね。――で、何かリクエストなん

かある?」

「えーっと……じゃあ豚キムチ炒飯がいいな。この前学校の奴らと店で食べたんだけどさ、こ

れがまた美味しいんだよ。キムチと炒飯の混ざり具合が絶妙で――」

「却下」

「何でだよ! ついさっきリクエストしろっつったばかりじゃねーか!」

「じゃあカレーでいい?」

「ふざけんな! いったいどうやったらこの会話の流れから”カレー”って単語が出てくんだ!」

 

 こうして村崎家の食卓は、いつもに増して賑やかに過ぎて行くのである。

 

 

 

 料理もあらかた食べ終えた頃、悠介は食器を流し台に置くついでに冷蔵庫を開いて、その

中に入っていた缶チューハイをテーブルの上に置いた。その正面にはちょうど村崎が座って

いる。彼女は二本目の缶ビールを空けようとしていたが、酔っている様子は全然見られない。

「あんたも飲むんだ」

「ああ。ちょっとそんな気分だから」

 村崎はそれ以上何も言わなかった。未成年の飲酒については別に文句を言う気はないら

しい。むしろ丁度いい話し相手が現れたとして、楽しんでいる向きさえあった。

 悠介は缶を開けてチューハイを喉に流し込む。炭酸特有の爽やかな刺激が口の中に広が

った。

 

「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 悠介は今日、ある決心を固めていた。それはずっと前から気になっていたことを村崎に尋

ねてみるという、ごく簡単なものだった。

 それは悠介の中でずっと残っているもので、なんてことはないちょっとした疑問だった。しか

し、一度気になり始めるとどうしても聞きたくなってしまうのだ。

 

「どんなこと?」

 ただそれは、自分なんかが触れていいものではないのかもしれない。悠介は村崎の過去

にむやみに触れて、それが原因で彼女を傷つけてしまわないだろうかと懸念している。知り

たいけど聞くのにためらいを覚えてしまう。だから今まで聞くことができなかった。

「プログラムの後、俺に言ってくれたことがあったじゃんか。『あんたは私の知り合いに似てる』

って」

「ああ、そんなことも言ったっけ」

「で、その知り合いって奴のこと、ちょっと気になったから話してもらえないかなって思ってるん

だけど」

 

 その瞬間、村崎の表情が今までのそれから一変した。明るく豪快な印象は消え失せ、軍人

という職業が持つ冷徹さが全面に表れたかのようだった。やはり聞いてはいけないことだった

のかと、悠介はこんな質問をしてしまったことを後悔した。

 

「……気になる?」

「そりゃあな。あんたは俺のことを知っているけど、俺はあんたのことをよく知らないわけだし」

 最初はそんな立派なものではなく、ただの興味本位からだった。しかし今では村崎の過去

を知ってみたいと思っている自分がいる。プログラムが終わった直後、彼女といがみ合って

いたのが嘘のようだった。あの頃の自分に今の状況を伝えたとしても、きっと信じてはくれな

いだろう。

 

「そっか……私ってあんたに、まだ何も話していなかったんだっけ」

 缶の中に残っていたビールを一気に飲み干し、空になった缶をテーブルの上に置く。

「じゃあ話してあげよっか。私の昔話」

 村崎の顔には憂いと懐かしさが混じったような表情が浮かんでいた。それはどこか自虐的

で、自暴自棄な雰囲気が漂っている表情だった。

 

「かなり長い話になるし、信じられないようなことを言うかもしれないけど、それでもいい?」

 悠介は「ああ」と言って頷いた。今から村崎が何を話そうとしているのか、悠介にはだいたい

分かっていた。憂いを含んだ寂しげな顔も、投げやりに見える雰囲気も、全てはもうどうにも

ならない、どんなに後悔しても結果が変わることはない過去の出来事が原因だからだ。

 それに悠介は、今の村崎と似た雰囲気を見せた人物を知っている。高校でできた友人の

滝本理沙が、そして去年の自分自身がまさにこんな感じだった。

 

 

 

 悠介の予想が正しいとしたら、村崎が話そうとしていることは、きっと――。

 

 

 

 物語は一つじゃない。

 終わる物語があれば、そこから派生して続く物語もある。

 浅川悠介が体験したあの物語もまた、別の物語の終焉から派生して生まれたものなのか

もしれない。

 

 その話が今、村崎の口から語り出される。

 もう終わってしまった話が今、始まろうとしていた。

 

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