フィニッシュ:97





 少年は、今自分が見ている景色が夢だということに気づいていた。

 どんな幸せも悲しみも、やがて水泡のように無に帰してしまう残酷な場所。彼はそんな夢の

世界で、夕陽に照らされている屋上に立っている。そこは彼にとって思い出深い場所だった

たが、なぜか特別な感慨は浮かんでこなかった。

 

 これが夢で、もう決して戻っては来ない光景だと分かっているからだろう。

 本物のようだが違う。これは偽者で、何をしてもどうにもならないことだと気づいているから。

 見慣れた景色の中で、屋上の策に腕を掛け街の景色を眺めている少女がいた。

 

「……つぐみ」

 少年――浅川悠介はその少女の名を呟く。悠介にとってつぐみは全てを投げ出してでも守

り抜きたいと思える存在だった。今の自分がいるのは彼女のおかげだし、つぐみと一緒にい

ると何だかとても心地が良い。これは彼女と会うまでは味わえなかった気持ちだった。

 

 つぐみは悠介に気が付くと、顔を綻ばせひらひらと手を振る。

「やっほー。今日もいい感じで不機嫌そうねぇ」

「……ああ」

 平静を装うとして、失敗する。どんな鈍感な奴でも気づくだろうというくらい声が震えていた。

「んー? どうかした?」

 悠介の異変に気づいたつぐみが訝しげに声をかけてくる。

「いや……何でもない。ちょっと気分が悪いだけだ」

 自分で言ってあまりにもわざとらしい嘘だな、と悠介は思った。気分が悪い、頭痛やめまい

がするといった言葉は悠介が早退するときによく使う、いわば悠介のうたい文句みたいなも

のだった。

 

 つぐみは「ふーん」とだけ答える。信じているのか、疑っているのか、嘘だと見破っているの

か。彼女が何を考えているのか、その表情からは汲み取れない。

 今の悠介の心境では、つぐみの顔を見ることなどできなかった。

 

 彼女が目の前で死んでいったのを見た、今の悠介では。

 

 これが夢の中だということは分かっている。そう、これは夢のはずだ。夢ならば眠る前の記

憶などが曖昧になっているはずだが、悠介はプログラムに選ばれ、吉川秋紀が黒崎刹那を

連れて逃げていったところの記憶まで全て覚えていた。

 

 いつもと変わらぬ飄々とした笑みを浮かべているであろうつぐみの顔が、腹部と顔を血で汚

し、光の消えかかった目で自分を見つめているときの姿とダブってしまう。

 

「ねえ、本当は何かあったんじゃないの?」

「なんでもないって言ってるだろ」

「嘘。本当は何かあって、それを隠しているんでしょ」

「あのなあ……お前いい加減にしろよ。俺は別に何も――」

 悠介の声を遮り、つぐみが「じゃあ」と強い口調で言った。

 

「何で悠介くんは泣いているの?」

 

 言われて、悠介はいつの間にか自分が泣いていることに気が付いた。

 頬を伝う涙を拭いとり、「お前には関係ないだろ!」と語気を荒げる。

「関係なくはないと思うんだけどなー」

 どういうことだ、と悠介が聞く前に、つぐみがそのことに対する答えを言っていた。

「私が死んじゃったから、泣いてくれているんでしょ?」

 

 何かを言おうとして口を開きかけ、そのままの形で悠介は硬直する。

 何を言えばいいのか、突然分からなくなった。思考のほとんどが混乱状態に陥っていた。

 それほどまでに、つぐみの言葉は悠介の心を揺さぶっていた。

 あまりにも唐突で、確信を付いていて、そしてなぜ彼女が”それ”を知っているのか。

 

「男の子って人前で泣くのを格好悪いって思ってるでしょ? その気持ちも分からなくはない

けど、でも私は泣いてくれたほうが嬉しいな。ああ、この人は私のために涙を流してくれてい

るんだ、って感じがするし」

 先程までは空虚に感じていたつぐみの声が、今は本物の彼女の声のように感じられる。突

然やってきたこの変化に悠介は驚きを隠せない。

「誰かのために涙を流すっていうのは、きっと特別なことだと思うの」

 少し恥ずかしいと思ったのか、つぐみは途端に声を上げて笑い始めた。

 

「親しい人がいなくなったら泣いて、楽しいことがあったら思いっきり笑う。せっかく人間に生ま

れたんだから、そうやって感情を表に出して生きていかないと損だと思わない?」

「……場合にもよるな。自分の感情に素直になりすぎるってのも考えもんだし」

「まーたそんなこと言っちゃって……悠介くんはもっと表に出した方がいいと思うけどなぁ」

「お前はもうちょい抑えろ。いつか周りに迷惑かけるときがくるぞ」

 目の前にいるつぐみは本物ではない。それは理解しているはずなのに、まるで本物と接す

るように会話している自分がいた。直視できなかったつぐみの顔も、いつの間にか見れるよ

うになっている。

 

「ねえ、悠介くん」

「なんだ?」

「私のために泣いてくれるのは嬉しいけど、いつまでも泣いてばかりいちゃダメだよ」

 モカベージュの髪に触れながら、つぐみは優しく微笑みかける。

「泣いてばかりいたら、前が見えなくなっちゃうから。笑えるときがやって来ても、ずっと泣いて

いたら台無しになっちゃうでしょ?」

 

 つぐみの声が、顔が、彼女の存在が心の中に溶け込んでいく。

 夕陽を受けている彼女の身体が、徐々に薄くなっていくように見えた。

 

「悠介くんには笑って生きていてほしいの。私の思い出に縛られないで、新しい思い出をたく

さん作っていってほしい」

「待てよ……おい、つぐみ!」

 耐え切れなくなり、悠介はつぐみに向って駆け出していった。

 二人にとって特別なこの場所に、つぐみの姿がゆっくりと溶け込んでいく。

 

「でも、できれば――」

 精一杯伸ばされた悠介の手が、消えかかっていたつぐみの身体をすうっ、と通り抜ける。

 つぐみの姿が完全になくなった屋上で、彼女の声だけが聞こえていた。

 天から聞こえてくるような、優しく、そっと心に触れていくような声が悠介の耳に届いていた。

 

 

 

「私のこと、時々でいいから思い出してね」

 

 

 

 

 

 ――目の前に映るのは夕暮れの屋上ではなく、真っ白な天井と自分の腕に繋がれた点滴

のチューブ。

 つぐみの姿も当然ない。そんなこと、考えるまでもなかった。

 何しろ彼女は、もうすでに死んでしまっているのだから。

 

「夢、か……」

 目を覚ました悠介は上体を起こそうとし、腹部に走った痛みに顔を歪ませる。これではとて

もじゃないが、起き上がれそうにない。悠介は乱れた呼吸を整え、ベッドの周りをきょろきょろ

と見回す。頭の周りにはテレビとテーブル、そして小さな冷蔵庫が置かれている。入り口は

左側で、右側には窓がある。パイプ椅子がいくつか置かれているが、人の使った痕跡は見

られない。

 

 特に変わったものはない、どこにでもありそうな病室だった。自分以外に入院患者がいな

いところをみると、どうやらここは個人部屋らしい。

 続いて悠介は自分の身体に異常がないか調べ始めた。身体を起こせないので見れる部分

は限られてしまうが、こちらも特に変わったところはない。一番負傷していた左腕は包帯で

ぐるぐる巻きになっている。先程痛んだ腹部に手を伸ばすと、そこにも包帯が巻かれている

ことに気が付いた。

 

 一通り身体を調べ終え、悠介は自分の首に生じた違和感に気が付いた。まさか、と思い、

悠介は自分の首に手を伸ばす。

 思ったとおりだった。あの冷たい金属の感触が、自分の首から消失していた。3組の生徒

全員に平等に付けられた、あの忌々しい銀色の首輪がなくなっている。

 自分で首輪を外した記憶はない。ではなぜ? そう思った悠介の耳に、聞き慣れた声が届

いてきた。

「目を覚ましたみたいね」

 扉の開かれる音と共に、悠介は声のした方向に目を向けた。

 

「お前は――――」

 一度見たら忘れられそうにない、人目につく紫色の着物を着た女性が、病室の入り口に立

っていた。

 悠介たちにプログラムに選ばれたことを告げ、ルールの説明をし、何のためらいもなく二ノ

宮譲二を殺してのけたプログラム担当官――村崎薫。

 彼女は悠介の身体を下から上まで嘗め回すように見つめ、後ろ手で扉を閉めると悠介が

寝ているベッドの隣までやってきた。

 

「無理して起きない方がいいわよ。君、あれから一日半ぐらい寝っぱなしだったんだから」

「一日半……?」

 言われて、悠介は窓の外を見てみる。綺麗に磨かれた窓ガラスは朝日を受け眩い光を放

っており、かすかに小鳥の鳴き声も聞こえてきた。

「じゃあ、プログラムは?」

「それは言わなくても分かってるんじゃないの? 優勝者はあんたよ」

 

 優勝者――俺が、プログラムの優勝者だって?

 

 悠介の頭に『優勝者』という言葉が何度も響き渡る。しかし彼はそれを簡単に受け入れる

ことができなかった。

「黒崎と……吉川は?」

「二人とも死んだわ。君の前から逃げて、それからすぐに。死因は二人とも失血死だったそ

うよ」

 

 失血死。ようするに、血を流しすぎて死んだということだ。

 悠介はあの戦いの中で、刹那に致命傷を負わせていた。そこは悠介もはっきりと覚えてい

る。ただ、吉川秋紀に関しては記憶が曖昧だ。彼に向けて撃った銃弾が当たったのか、それ

とも別の理由で死んでしまったのか。二人の最期を見届けていない悠介にはいくら考えても

答えが出てこない。

 

「TV放映用のインタビューとか、その他にもいろいろとあるんだけど、それは全部明日に回

しておくわね。さすがに目を覚ましたばかりでそういうことをするのは堪えるだろうし」

「……あんた、喋り方が違うな」

「今のほうが素の調子よ。プログラムの進行をするときはキャラを作っているから」

 プライベートはプライベート、仕事は仕事ということか。与えられた職務に忠実なあたり、さ

すがは大東亜共和国が誇るプログラム担当官。

 悠介は彼女に対し、露骨に不満そうな表情を浮かべた。直接的な原因ではないとはいえ、

この女性は自分をプログラムという名の地獄に突き落とした人間の一人だ。できることなら

今すぐにでも殺してやりたい。だが、そんなことをすればどうなるのか悠介にも分かっている。

 だから彼は黙って、ただ歯を食いしばるしかなかった。

 

「話が出来るといっても、あんたの怪我はまだ楽観視できるものじゃないわ。精密検査もしな

ければいけないし、あと二週間くらいはここに入院していることになると思う。それから、プロ

グラムに優勝した生徒は強制的に他県の学校に転校させられることになっているから。その

手続きも退院した後で――」

 村崎は唐突に言葉を切る。ふう、と溜息にも似た息をつくその様子は、何だか困り果ててい

るようにも見えた。

 

「そう睨まないでほしいんだけど。恐くて話ができないじゃない」

「俺はお前と話をするつもりはないし、お前の話を聞くつもりもない。さっさと帰ってくれ」

 悠介の表情が不快感を通り越し、険しいものへと変わる。自由の利かない体の代わりに、

射抜くような視線を村崎に向けていた。

「……安心したわ」

「ああ?」

「あんた、つぐみって子と仲が良かったみたいだからショックを受けているんじゃないかって思

っていた。最悪の場合、自殺も有り得るって考えていたわ

「そいつはどうも。あいにくだが、俺は自殺なんてする気はこれっぽっちもねえよ」

 

 そう、あるはずがない。

 自殺なんかするはずがない。

 生きて、生き抜いて、死んでしまったつぐみの分まで幸せになる。

 悠介はそう決めていた。それが彼女の願いでもあり、生き残った自分が彼女にできる数少

ない手向けでもある。

 

「俺は、生きていく。あいつの分まで生きなければいけないんだ」

「……そう。それを聞いて安心したわ」

 村崎はすっと立ち上がった。どうやらもう帰りつもりらしい。

「これだけは言っておくわ。何か誤解しているようだけど、私はあんたが思っているほど悪人

じゃない。今はこうして政府側に立っているけど――私の根底はあんたと同じ場所にある」

 根底――つまり、その人物を形成しているもの、ということだろうか。いきなりそんなことを

言われても、どう理解すればいいのか分からない。だいたい悪人ではないと言うのならば、

なぜ政府側に腰を下ろしているのだろうか。彼女のことをほとんど知らない悠介にとって、頭

に浮かんでくるのは答えが出てこない疑問ばかりである。

 

「あ、ちょっと難しかった? えーっと……まあ簡単に言うと、私のこと少しは信用してほしいっ

てこと」

 そう言われても簡単に信用などできるはずがない。もともと悠介は他人を信用することが

苦手だし、ましてや相手はプログラムの担当官である。

「そんなことできるわけないだろ」

「別に今すぐ信用しろってわけじゃないわ。あんたがどうしてもできないっていうのなら、それ

はそれで仕方がないし」

「……話はそれで終わりか?」

「本当はいろいろと話しておきたいんだけど……今日はこれで帰ってあげる。あんたはご機

嫌ナナメみたいだし、私も仕事がまだ残ってるしね」

 今日は、ということはまた後日訪れるということだろうか。悠介はそれについて質問をしよ

うとしたが、村崎は「じゃあね」と手を振りながら出て行ってしまった。

 

 バタン、と扉の閉まる音が響き、病室は再び静寂に包まれた。

 悠介は深く溜息をつき、何をするわけでもなく白い天井をぼけーっと眺める。

「プログラム優勝者、か……」

 自分はプログラムから生きて帰ってこれた。本来ならば喜ぶべきことなのだろう。

 だが、悠介の胸にあるのは喜びではない。虚無感と喪失感が、ただ漠然と広がっていた。

 

 プログラムで見てきた光景が、次々と悠介の頭の中に蘇ってきた。

 突然見知らぬ教室に連れてこられ、お互いに殺し合えと言われたとき。

 

 デイパックを貰って出て行く際、こちらを見てウィンクをしてみせたつぐみ。

 村上沙耶華が死に際に言った、『ありがとう』という言葉。

 大野高嶺の愕然とした顔。

 『これが私の、あなたを好きっていう気持ちです』と言ってくれた、井上凛の姿。

 長月美智子が言っていた。『私は、お前を絶対許さない!』と。

 あの時は理解できなかったが、黒崎刹那との戦いでつぐみを奪われ、初めて彼女の気持

ちを理解することができた。

 『何でそんなことができるんだよ!』と叫んでいた、中村和樹の悲痛な表情。

 つぐみを犯そうとしている宗像恭治の姿。

 戦いを止めさせるために立ち向かってきた高橋浩介。

 暗黒を顕現したかのような目で自分たちと対峙した、黒崎刹那の姿。

 

 戦っているときは分からなかったが、今になってゆっくりと考えてみると刹那は冷酷な殺人

者ではなく、どちらかというと自分に近い存在だったのかもしれない。

 刹那の目には、何かを成し遂げようとする強い意志があった。彼女が何を考えているのか

は最後まで分からなかったが、彼女が何をしようとしていたのかは何となく分かったつもりだ。

 その刹那を助けるために駆けつけた、吉川秋紀。彼と刹那がどういう最期を向えたのか、

今となっては知る術がない。

 

 そして――雪姫つぐみ。

 悠介にとって最も大切な存在だった少女。彼女は悠介に笑って生きてほしいと言い残し、

腕の中でゆっくりと息を引き取っていった。

 

 つぐみと出会うことがなければ、こんな悲しみを知らなくてもよかったのだろうか。

 自分の無力さをここまで実感する必要もなかったのだろうか。

 そこまで考えて、悠介は自分の考えを否定する。

 例え未来が分かっていたとしても、自分は今と同じ道を選ぶだろう。

 悠介の人生で一番幸せだったことが、つぐみと出会えたことなのだから。

 彼女と知り合えたから、悠介は変わることができた。人を信じることの温かさを知った。

 悠介にとっての最悪はプログラムに選ばれることではなく、あの時につぐみと出会えなかっ

たということ。

 

 そのつぐみも、今はもういない。

 みんな、いなくなってしまった。

 彼らの声を聞くことも、姿を見ることも二度とない。

 失ったものが大きすぎる。得たものもあるが、それ以上に失ったもののほうが大きすぎる。

 あまりにかけがえのないものを、悠介は失ってしまった。

 

「ごめんな……俺はまだ、笑えそうにないよ」

 それは、ここにはいない少女へ向けられた言葉だった。

 悠介はベッドに寝たまま、右手の掌で目元を覆い隠した。

 

 彼の肩は小さく震えており、病室の中に嗚咽が響き渡る。

 死んでしまった彼女のために、自分がしてあげられる数少ないこと。

 悠介は初めて、誰かのために涙を流した。

 

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