終盤戦:87





 前門の虎、後門の狼という言葉があるが――今のこの状況は、それに少し似ている気がする。

 少なくとも、どちらか一つを必ず選ばなければいけないという点では。

 

 自分の命か、他人の命か。

 牧村千里(女子14番)は今、選択のときに立たされていた。

 

 ショットガンのものと思われる銃声が続けざまに響き、直後にガラスの割れる音と何かが倒れ

る音が聞こえてくる。中村和樹(男子11番)が正面玄関の扉を完全に破壊し、バリケードを突破

した音だろう。それなりの部屋数があるとはいえこの病院はそれほど広くはない。この診察室を

探り当てられるのは時間の問題だ。

「牧村、こっちだ」

 千里の仲間である森一郎(男子17番)は外へと通じる窓の前に立ち、千里に対しこちらに来る

よう目で促している。

 

 逃走経路は既に確保されている。助かりたければあそこから外へ出ていけばいい。

 しかし、千里にはそれができなかった。開かれた窓へ行くこともできず、即席のバリケードによ

って塞がれている扉を何度か横目で見ながらその場に立ち尽くしていた。

 

「おい、何をやってるんだよ。あいつはすぐそこまで来ているんだ。早く逃げないと殺されるぞ」

「分かっているわ。でも……」

 千里は再び扉に目を向けた。あの扉の向こう、階段を上ってすぐの病室にいる一人の少女。

「まだ二階に清水さんがいるのよ」

 清水翔子(女子9番)。生きることを諦め、死ぬことを選んだ少女。彼女が発した暗い声が、彼

女が湛えていた絶望の表情が脳裏に蘇る。

 そうだ、彼女はまだ二階にいる。部屋を出るときに「今すぐ逃げて」なんて言っていないから、

翔子はまだベッドの上にいるはずだ。

 

「私たちはこのまま逃げればいいけど、清水さんはどうなるの?」

「――あいつのことは諦めろ」

 はっきりとした、冷たい感じの声。それを聞いた途端、千里の頭がかっと熱くなった。

「諦めろって、清水さんを見殺しにしろっていうの!?」

 一郎の肩を掴み、噛み付かんばかりの勢いでまくし立てた。

「何でそんなことが言えるのよ! 清水さんはクラスメイトでしょう? あなたにとって完全な他人

というわけではないはずじゃない。なのに何で、諦めろだなんてことを言うのよ!」

「……誰かの命ってのは、自分の命よりも優先されるものなのか?」

「…………!」

「あいつを助けに行って自分が死んだら元も子もないんだよ。あいつのためにそこまでの危険を

冒す必要はない。この場は俺たちだけでも逃げるべきだ」

 一郎は肩に置かれた手をゆっくりと引き剥がし、千里の身体を自分から遠ざける。

 

「仮にあいつを助けることができたとして……その後はどうなる? プログラムの優勝者はたった

一人だけなんだ。ここで助けたとしても……どこかで諦めないといけないんだよ」

 千里は絶句し、一郎の顔を凝視した。彼が言った言葉は千里があえて考えないようにしていた

事柄だった。

 これがプログラムだという以上、仲間や信頼なんていうものはいつか終わりを迎えてしまう。そ

れは千里も――恐らく、プログラムに参加した他のクラスメイト全員も思っていたことだろう。だが

生徒たちは、そのことを頭に浮かべようとしなかった。

 

 理由は単純。ただ単に怖かったからだ。そんなことを認めてしまっては何をするのも馬鹿らしく

思えてしまう。今ここを襲撃してきた中村和樹のように、誰かを殺して生き残ろうとしているものに

してみればあまり関係ないことだろう。だが全員が全員、和樹のように人を殺そうと決意できるわ

けではない。千里のように争いごとが嫌いなものや、人殺しをすることができないものだって大勢

いる。いや、どちらかというとプログラムに乗れないものの方が多いではないだろうか。

 

 それにこれは一郎の知らないことだが、彼女は――清水翔子は自ら人生の幕を下ろそうとして

いる。あと二時間で禁止エリアになるこの病院に留まり、首輪が作動するのを待とうとしている。

 これこそが、千里が翔子の救出をためらっている一番の理由だった。

 死のうとしている人間を助けたところで意味が無いのは明らかだったからだ。

 だから千里はすぐに駆け出して行くことができなかった。銃弾をかいくぐって翔子を助けたとし

ても、彼女は感謝の言葉を述べることも安堵の表情を浮かべることもしないだろう。なぜならば、

彼女が今一番望んでいることは死ぬことなのだから。

 

 助けても、助けなくても、行き着く先は一つ。

 清水翔子の死という、逃れようの無い現実だけだ。

 

「――森くんは、先に逃げて」

「おい、お前……」

「私が、行く」

 そう言って、千里は扉の前に置かれた机や椅子などをどかしはじめた。

「正気か!? 自分から死にに行くようなもんだぞ! 清水を助けたって何の意味も――」

「分かっているわよ!」

 裏返りかけた声が、このプログラムの中で最もよく聞いた女子生徒の怒声が――迸った。

 

「そんなの……私にだって分かっている。けど、だから放っておいてもいいっていうの? 助けら

れる人を見捨てて、何度も何度もそのときのことを思い出して……変えることができた未来の可

能性に縛られて生きていくなんて、そんなこと……悲しすぎるわよ」

 放っておけばいい。

 それが賢い選択だ。死のうとしている奴のことなんて放っておけ。結果が同じならまず自分の

身を案じろ。そうするのが一番いいんだ。

 

 ――なのに。

 

 なのに、何で自分はそれをしようと思わないのか。

 それは、自分がそれを望んでいないから。

 翔子を助け出すことを望んでいるから。

 

「森くんの言うとおり……清水さんを助け出したとしても、どこかで諦めないといけないのかもしれ

ない。でも、未来はそれだけじゃないでしょう? もうどうにもならない過去とは違って、未来は自

分たちでどうにかなるはずよ。それに私は……誰かを見捨てるなんてこと、できないから」

「それは――」

 一郎は何かを言いかけたが、途中で思いとどまったらしく口を閉ざし、理解できないといった風

に頭を振る。

 

「迷惑かけてごめんなさい。……それじゃあ」

 千里がドアノブを掴んだ瞬間、

「牧村!」

 突然の叫び声。振り返った千里の胸元に円柱状の何かと100円ライターが飛んできた。よく

見てみると、そのライターは一郎が使っていたものだった。円柱状のものは彼の支給武器である

ヘアスプレー。

「お前が持っているアルコールランプと……その二つを使えば牽制ぐらいにはなるはずだ。うま

くいくかどうか分からないが、何も無いよりはマシだろ」

 ややあって、千里はようやく彼が言っていることの意味を理解する。

 

「俺にはやっぱり理解できねえよ。お前といい、木村といい、朝倉だってそうだ。何で誰かのため

にそんなに必死になれる? 誰かを助けても自分が死んじまったら何にもならないってのに」

「森くん……」

「俺は、お前らみたいにはなれない。だけどな、ずっと一緒にやってきたお前が死んじまうのも俺

はいい気がしないんだよ。だから……死ぬな。木村が死んだときみたいな想いをするのは、もう

たくさんなんだよ」

 一郎の口から意外な名前が出たことに千里は驚いていた。彼と木村綾香の仲は決して良好な

ものではなかったはずだ。意思と意見が食い違い、ことあるごとに対立、反発していた。それは

まさに天敵と言っても差し支えないほどに。

 

 正午の放送で名前を呼ばれた綾香。彼女の親友だった朝倉真琴はその死を悲しみ、呆然と

していた。それと同じように、彼もまた綾香の死に何らかの感慨を抱いていたのだろうか。対極

の位置に立ち、幾度となく綾香と衝突していた一郎だからこそ、彼女の死には特別な想いがあ

るのかもしれない。

 

「俺ができるのはこれくらいだ。あとは自分で――」

 視線を窓の外へ向けた瞬間。

「――――!!」

 一郎の顔が、凍りついた。

 窓の向こうの景色、病院の外に立ち並ぶ木々の中にブレザー姿の女子生徒が立っていた。

 それを見た瞬間、一郎の全感覚が危険信号を発令した。理屈ではない。彼女の雰囲気が、

存在そのものが――。

 

「早く行け!」

 一郎の意識の全ては、千里に向けられていた。

 保身ではなく、敵を倒そうとするのでもなく、千里を逃がすことだけしか頭になかった。

 それとほぼ同時に聞こえてきたグレネードランチャーの発射音を理解する暇もなく、千里は廊

下へとその身を投げ出した。一郎がその後に続き、開きかけている扉を閉める。

「森く――」

 戸惑いを浮かべている千里の顔が一郎の目に飛び込んできた。何で。どうして。彼女はそう

言いたげだったが、今の一郎に彼女の疑問に答えているほどの余裕はなかった。それに聞かれ

たとしても、きっと上手く答えられないだろう。

 

 

 

 一郎が扉を閉めた瞬間、診察室の窓ガラスを突き破って侵入してきた毒ガス弾は床の上に落

下し、その狭い室内にあらゆる生物を死に至らしめる毒ガスを撒き散らした。

 遠から、銃声が聞こえてきた。

 実際にはそれほど遠くではなく、壁を隔てたすぐ向こう側の出来事なのだろうけど。

 この銃声が和樹の持っていたショットガンのものだということも、彼が今千里を殺そうとしている

ことも一郎は認識していた。意識は薄れていくというのに、思考能力はまだ失われていないらし

い。自分が今うつ伏せに倒れていることも、冷たい床の感覚も感じ取ることができた。

 

 ただ、身体の方はもうどうしようもなかった。腕も、脚も、指先さえも動かせない。意識だけがそ

こに存在している。

 ――ああ、ガラにもないことしちまった。

 最後の最後で、自分らしくないことをしてしまった。自分の命よりも優先すべきものはない、なん

て言っておきながら、誰かを逃がすために命を捨てるなんて。

 何であそこで千里を逃がすことを優先したのだろうか。改めて考えてみても、はっきりとした答

えは出てこない。窓の外の人物が手にしていたもの――恐らくあれがグレネードランチャーだっ

たのだろう――を見て、気がついたときにはすでに行動に移っていた。

 

 『見捨てられるわけないじゃない!』

 

 あの時、彼女はそう言った。

 罠かもしれない呼びかけを疑いもせず、先陣を切ってつぐみの元へと走り出していった少女、

木村綾香。

 自分本位の一郎にしてみれば自己犠牲の精神は一番理解しがたい感情である。

 自分はそんなことをしないと思っていた。誰かを救うなんて馬鹿な真似、するわけがないと。

 そんな感情、このクラスの誰かに抱くことなんてないと思っていた。

 

「ははっ……」

 血だらけの口から、掠れた笑い声がこぼれる。

 誰かのために動くことができる。

 誰かのために命を懸けることができる。

 こういうことをするのも、たまには悪くないと思った。

 

 友のためにその身を投げ出した綾香の気持ちが、今になってようやく理解できた。

 一郎は笑っていた。心の底から嬉しそうに、屈託のない純粋な笑顔だった。

 こんな自分でも人を助けることができる。それが嬉しかった。

 

 ガスマスクをつけた黒崎刹那(女子7番)が割れた窓から病院の中に入ってきたときにはもう、

一郎の身体はその生命機能を静かに停止させていた。

 彼の顔はとても安らかで、まるで眠っているかのように穏やかな死に顔だった。

 

森一郎(男子17番)死亡

【残り7人】

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