終盤戦:72





 誰にだって退くことができないときはある。

 ずっと前から行くと決めていた、自分の学力では受かるかどうか分からない学校を受験す

るとき。

 ガキ大将にケンカを売られ、それに受けて立ったとき。

 昇進のチャンスがかかった上司からの命令。

 人によって違っても、人生の中では退くことができない――抗う場面というものは必ず存在

する。

 

 それはただの、負けたくないという気持ちなのかもしれないけど。

 

 先に動いたのは右腕に深手を負っている浩介の方だった。

 悠介から受け取ったアーミーナイフを逆手に構え、ナイフの射程距離に入った瞬間にはそ

れを振り払っていた。

 銀の軌跡が空気を、そして陽光をも切り裂く。

 浩介はナイフを左手に持っていたため、その斬撃は左から右に振り払われるものだった。

故に右利きの悠介にしてみれば、脇差を攻撃の軌道に割り込ませることで簡単に防ぐこと

ができる。

 

 しかし悠介は、それをしなかった。

 上半身を軽く反らし、悠介はそのナイフをかわす。まったく無駄の見られない必要最低限

の回避行動。

 悠介の運動能力は並よりも少し下。動体視力も反射神経も特筆すべきものはなく、それこ

黒崎刹那(女子7番)のような特別な力も無い。しかし悠介にしてみれば、今の一撃は打ち

上げた野球のボールを捕ることより簡単なことだった。

 

 当たれば致命傷を免れない攻撃でも、それが”遅ければ”何の意味もない。

 右腕を動かせない状態にある浩介は、利き腕とは反対の左腕でナイフを振るうしかなかっ

た。攻撃する分には充分かもしれない。しかし利き腕とそうでない腕での攻撃速度には少な

からず差が生じてしまう。

 

 悠介はそのまま一歩後ろに下がり、両足に力を込めて跳躍――そのまま飛び蹴りへと繋

げる。脇差で攻撃してくると思いナイフを持ち上げようとしていた浩介はそれを中断、咄嗟に

身を翻し避けようとするが間に合わずに悠介の蹴りを正面からくらってしまう。

 

「ぐっ――」

 肉体が軋み、全身に痛みが走る。

 蹴りの痛みだけではなく、右腕の傷が今のショックで痛み出してきた。

 体勢を崩した浩介に悠介は追い打ちをかける。殺意を込めて突き出した脇差。浩介はそ

れを横に動くことで回避し、攻撃をしたことによって隙ができている悠介の頚動脈めがけナ

イフを振るう。

 

 攻撃後の隙を突いた完璧な一撃かと思ったが、悠介は上半身を大きく屈めてナイフの軌

道から逃れた。大きく振りぬかれたナイフは先程まで悠介の首があった場所を通過。その

結果として隙を作ってしまったのは浩介になった。

 身を屈めた体勢のまま、悠介は下からの斬撃を放つ。右下から左上へと切り上げられ、

浩介の下顎が浅く切り裂かれる。

 返す刀で全身を旋回、低い姿勢で竜巻のような動きを見せながら悠介は横薙ぎの一撃を

繰り出す。流れるような一連の動作に浩介は反応しきれず、鎖骨の少し下の部分を大きく

切り裂かれてしまった。

 

 制服ごと断ち切られた皮膚と肉。その断面から真っ赤な血が流れ出してきた。

 飛び退って距離を取る浩介。胸に付けられた一文字の傷は出血、深さとも大事には至っ

ていない。傷の具合を確認すると、ナイフを握りなおして再び悠介に向かい突進していった。

 浩介がナイフを振るい、それに対するカウンターのような動きで悠介も脇差を振るう。金属

同士がぶつかり合う音、宙に舞う火花。振り払われた刃が相対する敵を切り裂く。

 壮絶な斬り合い――否、殺し合いだった。

 

 

 

 間近で見ている霧生玲子(女子6番)にしてみれば、目の前で繰り広げられている光景は

尋常なものではなかった。

 浩介が死ぬ。私の目の前で殺されてしまう。そう思うと会議室のとき以上の凄まじい恐怖

が噴き出してきて、理性が全て壊れてしまいそうだった。

「やめて……もうやめてよ……」

 浩介は右腕に大怪我を負っている。この勝負に勝つことができたとしても、この先プログ

ラムを生きていけるかどうか。

 

 負けは死を意味する。

 勝ったとしてもいつかは死んでしまう。

 

 玲子は胸中で浩介の名を叫ぶ。優しかった浩介。いつも自分のわがままに付き合ってくれ

た浩介。傷つくことをいとわず、自ら危険な方法を選択しプログラムを生き抜いてきた浩介。

 楽しかった。彼と過ごした時間の全てが玲子の宝物だった。

 

 それがなくなってしまう。永遠に失われてしまう。

 

「やめてえええええっ!!」

 玲子はあらん限りの声で叫んだ。制服が切り裂かれ、顔が切り傷だらけになった二人が

こちらを向く。

 耐えられなかった。浩介の望みを破ってしまったとしても、自分が人を殺してしまったとして

も、悠介の狙いが自分になったとしても、そんなものは全部どうだっていい。

 浩介が死ぬことに比べれば。浩介が無事でいてくれるのならば。

 

 全ての恐怖は無に帰した。溢れ出る想いは力となり、玲子は悠介に向かって走り出す。

悠介が苦々しい表情を浮かべ、浩介が制止の声を上げたがそんなものに構ってはいられな

かった。

 

 真横から飛んできたつぐみの右足が玲子の身体を大きく吹き飛ばした。威力もさることな

がら、凄まじい速さを誇るハイキックの衝撃は並大抵のものではない。その一撃を受け地面

に叩き付けられた玲子は、頭に襲い掛かる痛みに耐え朦朧とする意識を必死に繋ぎとめな

がら自分を見下ろすつぐみを睨みつける。

「邪魔、しないでよ……私は、浩介を助けるんだ……!」

 震える手でつぐみの足首を掴む。何をやっているのか、何を考えているのか玲子自身に

もよく分からなくなってきた。

 

 ただ確かなのは、浩介を死なせたくないということ。

 

 つぐみは首を横に振り、玲子の言葉は受け入れられないことを示す。

「何でよ……会長だって浅川が死んだら嫌でしょう! なのになんで止めようとしないのよ!

あいつが死んでもいいっていうの!?」

「よくないわよ」

「じゃあ何で――」

「悠介くんがそう望んだから。それにこれは彼ら二人の問題よ。私たちがどうこう口出しして

いい話じゃないわ」

 玲子のそれとは対照的に、つぐみの声はひどく冷静なものだった。

 

「これは二人が自分で望んで自分で決めて、自分のプライドのために自分が守りたいものの

ために命がけで行われていること。私たちが割り込んで邪魔をしたら、二人の意志や決意が

何もかも全て無駄になってしまう。だから私たちは干渉するべきじゃない」

「おかしいわよ……何でそんな考え方ができるのよ。会長はそんなので納得できるっていう

の!?」

「うーん……正直言ってあまり納得はできないけどね。でもまあそれは仕方ないわよ。彼の

気持ちを台無しにするってわけにはいかないし、それに私は悠介くんが絶対に勝つって信じ

ているから」

 

 悠介とつぐみ。二人の間にあるのは絶対的な信頼感。どんなことがあろうと微動だにしな

い想い。それらの前に恐怖は意味を成さない。不安など微塵も抱かない。

 

 彼がいるから。

 彼女がいてくれるから。

 俺は。

 私は。

 どんなことだってできる。

 どんなことだってやってみせる。

 

 玲子の顔から感情の波が引いていく。そして理解できないものに対する畏怖のような感情

が新たに表れる。

 分からない。理解できない。どうしてそこまで信じることができる? どうしてそこまで。どう

してどうしてどうして――。

 

「私は悠介くんに全部任せるわ。その結果がどうなろうと、私はそれを受け入れるつもり」

 玲子からの返事はなかった。

 彼女はうつ伏せになったまま、悠介と浩介の戦いを見つめていた。

 いくら否定の声を上げようと、彼女自身心の底で感じていたから。

 この戦いに私が口を挟むところはないと。

 

 

 

 先に膝をついたのは浩介だった。

 頬、胸、腕――全身いたるところに切り傷が刻まれ、まるでカマイタチに襲われたかのよう

になっている。クラスの女子から「可愛い」と言われからかわれてきた中性的な顔も、今では

無数の赤い線が引かれた痛々しいものに変わっていた。

 それでも彼は戦うことを止めようとしない。決して後ろを振り向かず、ナイフを手にただ前だ

けを見据える。そこにあるものは幼い少年の顔ではなく、想いを貫こうとする立派な男の顔

だった。

 

 対する悠介もすでに体力の限界がきている。息はぜいぜいと荒く、額には汗が浮かんでい

る。浩介ほどではないにしろ彼も傷ついているため、これ以上長引かせるのは不利と判断

していた。

 

 浩介はよろよろとした動作で腰を上げ、呼吸を整えながら悠介に話しかける。

「左手、怪我しているんだろ」

「……気づいていたのか」

「ずっと不思議だったんだ、何でもう一つの腕を使わないのかって。最初は条件を対等にす

るためだと思っていたけど、それにしたって全然動かさないのはさすがにおかしいって気が

した。気が付いたのはついさっきのことだけどね」

「手加減してるみたいで気分悪かったか?」

「全然。だって君全力で殺しにかかってきていたし。それに手加減していたら今頃とっくに死

んじゃってるでしょ」

「ハハッ、そりゃそうだ」

 思わず笑みを浮かべる悠介。

 

「……次でケリだな」

「うん、次で最後だね」

「最後に一つ聞かせろ。お前……霧生を守るために誰かを殺そうと思ったこと、本当に一度

もなかったのか?」

「守るために撃たなきゃけないって思ったことなら何度もある。でもはっきりと『殺す』って思

ったことは一度もないよ」

「そうか……」

「じゃあ僕からも質問。君は会長を守るために戦いを止めようと思わなかったの? 人殺し

になる以外の選択肢だって選べたはずなのに」

「しなかった。前に似たようなこと言ったけど、俺このクラスの奴ら信用してねぇし。それに信

じていたのに裏切られるってのは物凄く辛いことだからな」

 

 異質であり同質である二人。

 彼が何を考えているのか、彼が何をしようとしているのか。

 分かることでもあるし、分かりたくないことでもある。

 彼は無数に枝分かれする人生の中の、有り得たかもしれないもう一つの自分。

 もし自分が、戦いを止めようとすることを選んでいたら?

 もし自分が、人を殺すことを選んでいたら?

 

 ――その時もきっと、お互いの想いをぶつけ合っているんだろう。

 

 もう言葉はいらなかった。

 二人は同時に、同じ表情を浮かべながら地面を蹴る。

 向かい合う視線、刃、想い。

 譲れない気持ちを背負う二人。先へ進めるのは一人。

 二人の手から、この殺し合いの幕を下ろす一撃が同時に放たれる。

 突き出され――そして交差する刃。

 

 一人は大切なものを守るため、全ての敵を排除しようとした。

 一人は大切なものを守るため、『敵』という概念をなくそうとした。

 

 悠介と浩介は、まるで抱き合っているかのようにその場から動かない。

 浩介が手にするアーミーナイフは、盾のような形で胸の前に差し出された悠介の左腕に突

き刺さっていた。

 悠介が手にする脇差は浩介の胸――その少し下を刺し貫いていた。

 

 浩介は口から血を吐き、そのまま地面に崩れ落ちる。

 玲子が悲鳴のような声をあげ、倒れた浩介に駆け寄ってきた。血に染まりゆく浩介を抱き

かかえながら、何度も何度も彼の名を呼んでいる。

 その光景を見ながら、悠介は小さく息を吐いた。そこに喜びはなく、哀愁のような感情だけ

があった。

「もういいの?」

「……ああ」

 近寄ってきたつぐみにそれだけ言うと、左腕の傷のことなど歯牙にもかけず悠介は足早に

そこから立ち去っていく。

 

 浩介の姿をまともに見ることができなかった。

 まるでもう一人の自分を見ているような気がした。

 悠介はもう、浩介のいる場所を振り返ることはなかった。

 

 霧生玲子の腕の中にいる高橋浩介の鼓動は、今にも消えてしまいそうなほど儚く、弱々し

いものだった。失われていく体温、徐々に冷たくなっていく身体。胸から流れ出していく血と、

身体を包む手の温もりだけが熱を感じさせていた。

 浩介は閉じかけていたまぶたを開けた。玲子が泣きじゃくりながら自分の名前を叫んでい

る。死なないで浩介。死んじゃだめ、と。

 

 玲子、ごめん。浩介は心の中で謝った。できれば最後のときまで隣にいて、玲子を守って

あげたかった。いつ死んでしまうかも分からない中で、一秒でも長く玲子の隣にいたかった。

 それももう、できそうにない。

 

「れい、こ……」

 声を出すのだけで精一杯だった。口の中に血の味と感覚が広がり、はっきりと発音したつ

もりなのに不明瞭な響きになってしまう。肝心なときに、と浩介は思ったが、玲子にはしっか

りと伝わっているようだった。

「ごめん。僕、ここまで……みたい」

 溢れ出す涙を拭いながら、玲子は大きく頭を横に振る。

「やだ、やめて……そんなこと言わないで……」

 自分の手を包む玲子の手を、浩介はぎゅっと握り締めた。

「ずっと好きだった……昔も、今も、これからもずっと……」

 

 ああ……やっと、言うことができた。

 僕がずっと想っていたこと。

 僕がずっと言いたかったこと。

 

「浩介の馬鹿……そういうことはもっと早く言いなさいよ」

「そうだよね……何でもっと早く、言えなかったんだろう」

 玲子の目から涙がこぼれ、浩介の頬に落ちた。

「玲子が秋紀のことを好きだって知っていたから……失敗するのが怖かったから。僕、勇気

がなかったんだよ」

「何言ってんのよ……あんたが頑張ってるの、ちゃんと見ていたんだから」

 

 玲子は薄っすらと笑みを浮かべ、浩介の体をより強く抱きかかえる。

 本当は泣いていたいはずなのに。

 浩介を悲しませないようにと。安心させてあげたいと。

 それは玲子なりの、精一杯の心遣いだった。

 

 玲子は浩介の体を抱き続けていた。

 赤く染まった浩介の体を。自分を好きだといってくれた浩介の体を。

 今は温かい浩介の体を。これから冷たくなる浩介の体を。

 涙を流しながら、抱き続けていた。

 

高橋浩介(男子10番)死亡

【残り14人】

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