中盤戦:30





 井上凛が初めて浅川悠介と口を交わしたのは、去年の9月――とある日の放課後のこと

である。

 その時の凛はまだ他の生徒と同様に、悠介に関する様々な噂を信じているひとりの女子

生徒に過ぎなかった。

 

 二年生に進級した際、新しいクラス名簿(舞原中学は二年生に進級する際にクラス替え

が行われる)を見てそこに彼の名前を見つけた時は少なからず不安を覚えたものだ。

 彼のような不良がカモにするのは、おとなしくてそういった事をされても怯えて反撃してこ

ない奴――つまり自分のような生徒と相場が決まっていたから。

 だから凛は、目の前にいる人物を前にしてもただ立ち尽くすことしかできなかった。

 

 その日は中学校の一大行事である体育祭を明日に控えており、全校の生徒がそれぞれ

に割り振られた仕事をこなして翌日の準備を進めていた。

 凛の仕事は放送用の機材などをグラウンドのテントまで運ぶというものだった。中村和樹

や二ノ宮譲二なども同じ仕事を任されていたが、急な用事が入ってクラスで機材の運搬を

行うのは凛と悠介だけになってしまった。

 ――困ったなあ……。

 凛は重い足取りで機材置き場に向かっていた。重たい機材を運ぶためにはそれなりの

腕力が必要である。女性の自分は腕力に自信があるほうではないし、頼りの綱である男性

はあの浅川悠介だ。面倒くさいという理由で授業をサボる彼が手伝ってくれるとは到底思え

ない。

 それらの理由で、かなりの重労働になるであろうことは目に見えていた。

 だが――。

 機材が置かれている教室に行った凛は、無愛想な表情を浮かべたまま窓の近くに立って

いる浅川悠介を発見した。

 

「お前だけか?」

「う、うん」

「他の奴らはどうした?」

「中村くんと二ノ宮くんと斉藤くんは他の仕事が入ったから手伝えそうになくて、千里は具合

が悪いから保健室で休んでいるけど……」

 悠介はちっ、と不愉快そうに舌打ちをする。

「じゃあ俺とお前の二人だけかよ。くそっ、かったりぃな」

 ポケットから手を出すと、悠介は教室の隅に置いてある機材に向かっていった。

 

「……何で浅川くんが来ているの?」

「あぁ?」

 ジロリと睨まれ、凛は思わず身をすくめる。

「俺がここに来ちゃ悪いのかよ」

「悪くはないけど……来ないかと思っていた」

「最初は来るつもりはなかったよ。でもつぐみが「たまにはクラスのために働け!」って言う

もんだから仕方なくな」

 

 つぐみと悠介が最近よく一緒にいるのは凛も知っていた。皆が恐れる不良生徒も彼女に

は逆らえないのだろうか。何だか意外な一面を見てしまった気がする。

 悠介は機材が入ったダンボール箱を持ち上げる。細身の外見からは窺えなかったが、それ

なりに力はあるようだ。さすがは男性といったところか。

「それによ、女ひとりに辛い思いさせて俺だけ楽するってのも格好悪いしな」

「え……」

「何でもねえよ。つーかお前もさっさと持て。夕方から観たいドラマの再放送があるんだから

早く終わらすぞ」

 言うが早いか、悠介は機材を持って早々に教室を出て行ってしまった。凛はしばらく呆気

にとられていたが、「早く終わらすぞ」という彼の言葉を思い出し慌てて荷物を運び出した。

 

 二人という少人数だったが作業は思いの他はかどり、予想よりも早めに終わりそうだった。

 悠介と凛は一番大きいダンボール箱を二人で運んでいる。教室とグラウンドを何往復もする

のは結構大変で、二人の額には汗が浮かんでいた。

「もうすぐ段差になってる場所があるから、そこんとこ気をつけろよ」

「うん」

 作業を繰り返していくうち、凛の悠介に対する先入観はすっかり薄れていた。様々な噂から

『怖い人』、『粗暴な人』いう印象があったが、実際にはそれらの印象と程遠い人物だった。

必要なとき以外には喋らないし、無愛想な顔は確かに怖いけど、世間一般で言うような不良

生徒にはどうしても思えなかった。

 

「意外だったかも」

「あ?」

「浅川くん、みんなが言ってるより怖い人じゃなかったから」

 少し前を進む悠介が、ひょいっと段差を越える。

「……みんなが、か」

 その一瞬、悠介の目がすぅっと細くなる。

 

「お前がどう思ってるのか知らないけど、俺は何もしていない相手をいきなり罵倒するような

奴じゃない。これでも常識はわきまえているつもりだ」

 常識をわきまえている。およそ不良と呼ばれている生徒とは思えない台詞だ。

「まあ、勝手に言わせておけばいいさ。俺は別に困らないしな」

 そう言う悠介を凛は寂しそうに見つめた。本人はこう言っているが、やはり誤解はちゃんと

解いておいたほうがいいと思う。

「あの、よかったら私が――」

 浅川くんは本当はいい人だって、みんなに言ってあげるよ。

 そう続くはずだった凛の言葉は、唐突に断ち切られた。

 踏み出された足が床の段差に引っかかってしまい、凛の身体は大きくバランスを崩した。

「きゃあっ!」

 短く悲鳴を上げ、そのまま前のめりに倒れる。

 ――はずだったが、脇から差し出された腕が凛の身体を受け止めた。

 

「…………あ」

 顔を上げた凛の目に悠介の顔が飛び込んでくる。

 そこでようやく、悠介に受け止められたことに気が付いた。受け止められたと言うよりも、

抱きとめられた、と形容したほうが適切かもしれないが。

「あ、ありがとう」

「……どうでもいいけどさ、いつまでこのままでいるつもりだよ」 

「――! ごごご、ごめんなさいっ!」

 すぐさま体勢を立て直し悠介の腕から離れる。同年齢の男性に受け止められたという恥ず

かしさから、凛の顔は真っ赤になっていた。

 

「…………」

 対する悠介も自分の行動を恥ずかしく思っているらしい。咄嗟の事とはいえ、誰かに見られ

ていたら大変な場面だった。

「あ、あの、浅川くん……」

「お前、さっき俺が言ったこと聞いてなかったのか?」

「……ごめんなさい」

「怪我、してないよな」

「……うん」

「だったら行くぞ。これが最後なんだからさっさと終わらせようぜ」

 そう言ってダンボールを持ち上げる。凛は最悪殴られる事も覚悟していたのだが、悠介は

凛の失敗を咎めるどころか不機嫌そうな素振りすら見せていない。

「おい、早く行くぞ」

 悠介に言われ、凛も再びダンボールに手をかける。

 

「…………」

 歩いている途中、凛は心臓の鼓動が高鳴っていることに気づく。

 転んだ自分を受け止めてくれた、悠介の腕。

 自分が思っていたより、ずっとたくましかった。

 また転んだりしたら、彼は同じ事をしてくれるだろうか。

 その時のことを考えるだけで、胸の奥がドキドキとした。

 この日、井上凛にとって浅川悠介は特別な存在となった。

 

注:回想シーンのため残り人数は表記しません。

 

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