試合開始前4  2005年5月10日





            その部屋は、重苦しい空気に満ちていた。

            新潟県内にある中学校の一つ、舞原中学校。その会議室の中で、二人の男女

           が会議用の机を挟んで座っている。男の方は三十代後半くらいで、口ひげを蓄え

           た落ち着きのある風貌をしている。女性の方は二十代前半ほどで、艶やかな黒髪

           は肩口で切り揃えられていた。彼女は紫色の着物という人目につくような服装をし

           ていて、髪には美しい髪飾りがさしてあった。

           「お久しぶりです、高峰先生」

            女性は笑みをこぼすと、自分の前に置かれたカップを手に取った。カップの中、

            ブラックのコーヒーがほのかな湯気を出している。

           「元気そうでなによりです。最後に見たときと随分変わっていたので、驚きました」

            高峰と呼ばれた男性は、そこで初めて口を開いた。

           「人間十年も経てば、誰だって変わるさ。君の方こそ随分と綺麗になったじゃない

           か。見違えたよ」

           「先生にそう言っていただけると、お世辞でも嬉しいですわ」

           「お世辞なんかじゃない。これは本音さ、村崎」

            村崎と呼ばれた女性は口元に手を当て、つつましく笑う。高峰もカップを手に取り、

           コーヒーに口をつけた。




           「……で、俺に何のようだ?」

            自分の顎を組んだ手の上に乗せ、鋭い瞳を村崎に向ける。

           「あれからお前が軍に入ったことは知っている。そしてそれなりの地位についた事も。

           そのお前が何の連絡もなしに俺を訪ねてきた。……だいたいの察しはついているが、

           俺はお前の口から聞きたい」

           「…………」

           「もう一度言う。俺に何のようだ?」

            高峰の声は硬い。彼はこれと同じような事を、過去に一度経験した事がある。

            村崎は無言のまま、鞄の中から書類を差し出してきた。

            中身を確認するまでもないと思ったが、高峰は渡された書類に目を通した。そこには

           予想と同じ、自分が十年前に読んだ文章とほとんど同じことが書かれていた。

            高峰は向かいに座った女性の顔を見つめた。見た目はだいぶ変わってしまったが、

           そこにある雰囲気は十年前と変わっていない。自分が教師になり初めて受け持ったクラ

           ス。初めて教壇に立ったときに目にした女子生徒のままだ。

           「舞原中学校3年3組が、『プログラム』の対象クラスに選ばれました。担当官は……あた

           しです」

            何の感情もこもっていないその言葉に、高峰はしばしの間沈黙する。

           「……俺はこの職に就いてそんなに長くないが、まさか自分のクラスが二度もプログラム

           に選ばれるとはな。たいした疫病神っぷりだ」

            高峰は自虐的な笑みを浮かべ、書類を机の上に置いた



            高峰誠治が教師になったのが今から十年前。彼はそのとき、右も左も分からない新人

           の教師だった。

            そんな彼が初めて受け持ったクラスが、今目の前にいる村崎薫がいたクラスである。

            明るくて誰に対しても平等な高峰は、男女問わず生徒の人気が高かった。その中でも

           村崎は、ことあるごとに高峰に詰め寄っていた。中学生くらいの年齢にはありがちな、年

           上に対しての憧れである。

            騒がしいけど楽しい一年を過ごせると、高峰も村崎も思っていた。だがそれは、ある日

           突然打ち壊される。

            村崎のクラスが、プログラムに選ばれたのだ。

           もちろん高峰は反対した。何の罪もない子供達が殺しあうなんて理不尽な事に同意でき

           るわけなかったし、何よりも大切な生徒達を死なせたくなかった。

            そんな想いも、政府という強大すぎる敵の前では無力だった。政府に逆らった者は死ぬ。

            この国の人間ならば多くのものが知っている、暗黙の了解だった。

            激しい葛藤を繰り広げながらも、高峰はそれを承諾した。死という絶対的な恐怖の前に、

           安っぽい正義感など何の役にも立たなかった。

            四日間という長きにわたる死闘を勝ち残ったのが彼女、村崎薫だった。高峰が最後に

            村崎を見たのは地方のローカルニュースに流れた映像で、それからは一度も彼女の姿を

           見た事がなかった。

            今日、この時までは。



           「中止や変更にはならないよな」

           「それはあなたが良く分かっているはずです。政府に歯向かったものがどうなるのか」

           「……ああ、良く分かっているさ」

            高峰は煙草を取り出し、口に咥えて火をつけた。

           「良く分かっているよ。だからあの時、俺は……」

            消え入りそうな声が漏れ、天井を仰ぎ見る。その瞳は、見るものの胸を締め付けるよう

           な憂いを帯びていた。

           「なあ、村崎。俺はずっと後悔していた事があるんだ」

           「後悔……?」

            高峰は小さく頷く。

           「俺はこの十年間……ずっと思っていた。ほとんど毎日。何であの時、俺は何もしなかった

           んだろうって……何でお前らを助けてやろうとしなかったんだろうって、ずっと思っていたんだ」

           俯いた彼の目から、ぽたり、ぽたりと涙がこぼれる。それは机の上で弾け、小さな水滴となっ

           て飛散した。

           「俺はもう、あんな思いをしたくない。自分の生徒を見殺しにするなんて事……したくないんだ」

            高峰は煙草を灰皿に押し付けると、唐突に椅子から立ち上がった。そのまま歩き出し、村崎

           の隣までやって来る。

            そして――。



            「――っ!!」

             ガタンという音と共に、村崎が背中から床に倒れる。いや、正確には倒されたと言うべきか。

            「……何の真似、ですか」

             高峰は村崎に対して馬乗りになっている。動きを封じられ、村崎は起き上がることができない。

            「俺は、今のクラスが好きだ。かつてのお前達と同じように。みんな、みんないい奴ばかりなんだ。

             だから俺は、あいつらを死なせたくない。俺はもう……あの時と同じ思いをしたくない」

             高峰はスーツの下から、鈍い輝きを放つ刃物を取り出した。あらかじめ家庭科室から持ち出して

            おいた包丁だ。それを右手に握り締め、空いた左手で村崎の首を絞める。

            「う……っ」

            「すまない、村崎。お前には悪いと思っているが……それでも俺は、生徒を死なせたくない!」

            「私を殺したくらいじゃ、プログラムは止まらないですよ」

            「分かっている……そんな事は、俺だって分かっている!」

             村崎の首を掴む手に力がこもる。喉を圧迫され、息をするのも難しくなってきた。

            「せ、先生……やめて、ください……っ!」

             束縛から逃れようと抵抗するが、それも無駄に終わる。男性と女性では、基本的な筋力に差が

            ありすぎる。

             しだいに意識が薄れていき、脳が警戒信号を発令する。必死にもがいた事により着物は乱れ、

            胸元から白く艶やかな肌が露になった。

             薄れていく視界の先に、包丁の狙いをつける高峰の姿が映る。このまま絞め殺されるのが先

            か、あの包丁で刺殺されるのが先か。どちらにせよ、痛みを伴う事は間違いない。

             信じられなかった。自分たちを優しく指導し、楽しい時間を共有したあの高峰が自分を殺そうと

            するなんて。中学校時代の思い出が頭をよぎり、涙腺を刺激する。

            「…………っ」

             村崎はぎりっ、と奥歯を噛み締めた。気づかれないように右手を背中に回し、潜ませておいた物

            を握り締める。

             冷たい金属の感触が伝わり、抜き放った小型の拳銃――ベレッタM1926の銃口を高峰の眉間

            に突きつけた。

             高峰は驚愕の表情を浮かべたが、そのすぐ後に、全てを受け入れたような優しさに満ちた表情へ

            と変わる。

             包丁が振り下ろされる直前、村崎はベレッタの引き金を引いた。



             乾いた音が会議室に響き、続いてどさりという音が空気を揺らす。

             村崎は高峰の身体から抜け出し、苦しそうに咳をする。乱れた呼吸を整えながら、頭の穿かれ

            た高峰の死体に目を移した。

             その顔はどこか安らかで、微笑んでいるようにも見えた。

            「……せん、せい……」

             高峰の胸に顔を埋め、村崎は静かに泣き崩れた。

 

 

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