「何やってんだろうな、俺は……」

 悠介は溜息混じりの呟きをこぼしながら、夕暮れが近付く市街地をあてもなく歩き回っていた。

いつもならば学校が終わってからすぐにアルバイトへ向うのだが、今日は休みなので自由な時

間を過ごすことができる。

 

 いつもならば明人とゲーセンに行ったりどこかの飲食店に入ったりと遊び歩いているのだが、

今日は悠介一人でぶらぶらと歩いていた。やることがないのなら家に帰ればいいのだが、どう

にも気持ちがすっきりしなかった。なんだかモヤモヤした感じで、身体の中に霧が広がっている

ような感覚だった。

 

 東京に越してきて一年が経ったとはいえ、まだこの街に慣れたというわけではない。

 以前に通っていた中学校は住んでいるマンションから自転車で通える距離にあったが、今通

っている高校は住んでいる場所から二駅ほど離れた場所にある。そのためこの街に詳しいとい

うわけではないが、バイトが休みの日は明人に連れまわされていたことが多かったからだいた

いの地理は頭の中に入っていた。引っ越してきたばかりの頃は今まで住んでいた街とあまりに

違うため、自分が今どこにいるのか分からなくなることが何度かあった。今になって思えば、恥

ずかしい思い出である。

 

 このモヤモヤの原因が何なのかは分かっている。昼休みに自分の前にやってきた、五十嵐

一美という名のクラスメイト。自分に告白するつもりだったようで、悠介が彼女のことを知らない

ということを悟り、思いっきり落胆していた少女。

 

 

 

 ほんの一時間ほど前、悠介は彼女に告白された。

 

 

 

 六時間目とSHRが終わり、帰り支度を始めようと思っていたところで悠介は一美に声をかけ

られた。二人は話し合い、科学室などの特別教室がある特別棟へと向った。あそこなら放課後

の人通りは少ないし、誰かの邪魔が入ることはないだろうと思ったからだ。

 遠くから生徒たちの喧騒が聞こえてくる特別棟の教室で、悠介は一美から想いを伝えられた。

入学式で見た瞬間から気になっていたということ。授業中もついつい悠介に目がいってしまい、

気がついたら好きになっていたということ。一美の純粋で、それでいて素直な想いが込められた

言葉は真っ直ぐに悠介のもとへ届いていた。

 

 一美の気持ちは嬉しかったが、悠介は一言「ごめん」とだけ言った。もっと気の利いた台詞を

考えていたはずなのに、いざその時が訪れたら頭の中が真っ白になり、そんな言葉しか出てこ

なかった。

 

 目の端に涙を滲ませながら、それでも強がって微笑んでいる一美の姿が頭の中から離れな

い。断るのは別に悪いことではない。相手には相手の気持ちがあるように、悠介には悠介の気

持ちがある。

 そして原因はこれとは別にもう一つある。こう言うのは彼女に対して失礼かもしれないが、それ

は悠介にとって一美に告白されたことよりも深刻な悩みだった。

 

 

 

「やっぱ、そう簡単にはふっきれないか……」

 その悩みというのは、一年前のあのプログラムで――目の前で息を引き取った雪姫つぐみの

ことだ。

 プログラムが終わった直後、悠介は夢の中でつぐみと出会っていた。そのときに彼女は、

 

『悠介くんには笑って生きていてほしいの。私の思い出に縛られないで、新しい思い出をたくさん

作っていってほしい』

 

 という言葉を自分に残してくれた。悠介にとってそれはとても嬉しいことだったし、彼女の言う

ことは正しいことだと思っていた。過去のことに縛られて幸せになった人間などいないと、以前

に何かの本で読んだことがあるからだ。

 それから悠介はできるだけプログラムのこと、つぐみのことを引きずらないように生きてきた

つもりだったのだが、何かあるたびにつぐみのことが頭に浮かんできてしまう。

 明人や理沙とは仲が良いし、彼らはとても良い奴だと思う。だがつぐみと同等――もしくはそれ

以上に彼らに信頼を置くことができるだろうか? 

 

 五十嵐一美に告白されたときだってそうだ。あそこで彼女の気持ちを受け入れていても、自分

の中でつぐみの姿が消えることはないだろう。もうこの世にはいない、好きだった相手のことを

想いながら他の誰かと付き合うなんて真似ができるはずがない。それは相手にとっても、つぐみ

にとってもとても失礼なことだと思う。

 このままじゃいけないと自分では分かっている。だが、分かっていてもどうすることもできなか

った。つぐみのことをそう簡単にふっきれるはずがない。

 

 最近、以前の暮らしが妙に懐かしく思えてしまうときがある。

 プログラムで生き残って、命を落とさずに日常へと戻ってこれたはずなのに……気持ちが沈ん

でいる自分がいる。まったく、情けない話だった。

 今の自分を見たらつぐみは何ていうだろうか。

 

 『なーにやってんのよ』、か。

 『情けないなあ、か。

 それとも『悠介くんらしいわね』と言い、笑って済ませるだろうか。

 

 どれにしても、今の自分はつぐみに会う資格なんてありはしない。彼女の言ったことも守れて

いないのに、どの面を下げて会いに行けばいいというのだろうか。

 自分と同じ、学校帰りの学生で賑わう繁華街を進んで行く。人々の声。通り過ぎて行く電車の

音。様々な電子音。

 周りに人間はたくさんいるはずなのに、自分ひとりだけ孤立しているように感じられた。

 

 ――なあ、つぐみ。俺はまだ、お前の言ったように笑うことができねえよ。いつかお前にも胸を

張って誇れるような、そんな笑い方ができる日が俺にも来るのかな?

 

 天に向けて放たれたその問いに、答えが返ってくることはなかった。

 

 

 

「――――ん?」

 駅前の交差点まで来たところで、悠介は群衆の中に見覚えのある顔を見つけた。肩にかかる

セミロングの黒髪に、気の強そうな表情――。

 信号機の色が変わり、人々が横断歩道を渡り始めた。悠介は視線を彼女に定めたまま動こ

うとしない。彼女を含めた何人かの人間がこちらに近付いてくる。

 彼女も悠介に気がついていたらしく、その人物――滝本理沙は悠介の前で立ち止まった。

 

「やっほー」

「よう」

 二人は再会の挨拶を交わした。

「今帰えるとこ?」

「ああ。お前もそうか?」

「うん。ほんとはすぐ駅に入ろうかなーって思ってたんだけど、悠介のこと見つけちゃったからさ」

 どうやら彼女はかなり前に自分のことを見つけていたらしい。確か彼女もアルバイトをしていた

はずだが、こうしていられる暇があるということは自分と同じく仕事がない日なのだろう。

「ねえ、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」

 

 

 

 二人が向った――というより、悠介が一方的に連れて行かれたのは、裏通りの奥にあるゆっ

たりとした雰囲気の喫茶店だった。自分たちのような若い世代の人間よりも、社会人が客層の

ほとんどを占めているような店だった。実際、今店内にはスーツ姿の人間しかいない。そんな中

で制服姿の自分たちは目立つが、ここなら学校の連中と会うことはまずないだろう、と悠介は気

を楽にした。

 

「お前がこんな渋い店知ってるとは思わなかったよ」

「へへー、結構いい店でしょ? 私ってば色々と遊び歩いているから、こういうとこ他にもいくつか

知っているんだ」

 理沙が転校してきたのは自分と同じ時期だというのに、もうずっと前からこの街を知っているよ

うに感じられる。順応性が高いというか、行動力があるというか。どっちにしろ感心させられる。

「そういや悠介ってバイトしてなかったっけ?」

「今日は休み。ここんとこずっと出ていたからな」

 メニューに目を通し、アイスコーヒーを注文する。理沙もそれに続いてカプチーノを注文した。

 その後、特に意味もなく店内を見渡していたが、こちらをじっと見つめる理沙の視線に気がつ

いた。

 

「どうかしたか?」

「一美ちゃんのこと、結局フッちゃったの?」

 理沙の言葉で、今にも泣き出しそうな五十嵐一美の顔が蘇った。

「彼女には悪いけど、断ったよ」

「ふーん……」

 理沙の声が少し低くなる。

 

 ――ヤバイ。怒らせちまったか?

 悠介は内心でヒヤヒヤしていた。普段は陽気な奴だが、理沙は本気で怒るといつもの彼女か

らは考えられないくらい怖くなる。凍てつくような視線で睨みつけ、凄みの利いた低い声で相手を

圧倒する様は見ている側も恐怖を覚えるほどだ。

 

 二人の会話はそこで一旦途切れる。気まずい沈黙が降り、悠介はこの場から逃げ出したい

気持ちに駆られた。つぐみといい理沙といい、どうしてこう自分は女性にいいように扱われてし

まうのだろう。こう言うのもなんだが、完全に尻に敷かれてしまっている。もしかしたら自分は一

生こうなのだろうかと考え、悠介は憂鬱な気持ちになった。

 お待たせしました、という声と共に、店員が注文した品を持ってきた。悠介はアイスコーヒーに

ミルクを注ぎ、ストローでかき混ぜてから口にする。

 

「……怒らないのか?」

「へっ?」

「いや、俺が五十嵐さんをフッたから、それで頭にきて俺を呼び出したんだと思ったんだけど」

 理沙はしばらくぽかんとしたあと、堰を切ったように大笑いした。

「違う違う、そんなつもり全然ないってば! もしかして悠介ってば、勘違いしてずっとビビってい

たとか?」

「…………」

 無言を肯定と受け止め、理沙はより一層大きな声で笑い出す。

「あははははははは! 悠介ってばおもしろーい!」

 からかわれて、思わずかあっと顔が赤くなる。

「てめっ……いい加減黙れよ! 他のお客さんに迷惑だろうが!」

 案の定、他のテーブルにいる客からは好奇の目で見られている。中には露骨に眉をしかめて

いる客もいた。悠介はとりあえず、その人に向って「すみません」と頭を下げた。

 

「いや、ごめんごめん。でも別に怒っているわけじゃないから安心して。受け入れようが断ろうが

そんなんその人の自由じゃない。私が口出しするようなことじゃないわよ」

 それはそれで意外だった。昼休みの屋上での様子から考えれば、絶対何か言ってくるだろう

と思っていた。

「じゃあ、何の話があって俺をこんなとこまで連れてきたんだよ」

 理沙はふっと、人が変わったように真剣な目をした。

 

「なんて言うか……お互いの秘密を打ち明けようかなー、みたいな」

「はあ?」

 話しに脈絡がなさ過ぎるし、だいたい何のことだか全然分からない。

「先に言っておくね。これは私の勝手な予想っていうか、勘みたいなものだから。だから、違って

いたらごめん」

「はっきりしないな。いったい何が言いたいんだ?」

 少し苛立った口調で言う。理沙は一旦目を逸らし、それから再び悠介の方に視線を向けた。

 

 

 

「悠介さ、ひょっとして……プログラムの優勝者なんじゃない?」

 

 

 

 その言葉は心臓が止まってしまうんじゃないかと思うほどの衝撃を、悠介に与えていた。

「…………」

 思考が混乱しているのが自分でも分かる。平静を装うとしているが、もう彼女にはバレている

のかもしれない。アイスコーヒーを口にして、落ち着きを取り戻してから話を再開する。

 

「俺がプログラムの優勝者だって?」

「うん」

「はっ、そりゃ面白い話だな。で、お前がそう思う根拠は何だ?」

 最初はからかわれているのかと思ったが、その考えは理沙の眼差しに打ち消された。彼女の

眼差し、態度は真剣そのものだ。そこに偽りなど見当たらない。真偽の問題はともかく、理沙は

真面目に話をしている。だからこそ、悠介はどうすればいいのか考えを巡らせていた。

 

 自分がプログラムの優勝者だということは誰にも言っていない。ここにいる自分の知り合いで

それを唯一知っているとすれば、自分を東京に連れてきた村崎薫だけだ。情報が漏れたと考え

るのならば村崎を疑うしかないのだが、彼女が誰かに自分のことを言ったとは考えにくい。

 だとすると、無意識のうちに態度に出ていたということが考えられる。可能性としてはこちらの

方が高いだろう。そうなると、どこが悪かったのか悠介には見当もつかない。

 

「動揺しちゃってるね」

 図星をつかれた。

「突然こんなことを言われたら戸惑うのも仕方ないけど、私はこのことを誰かに話すつもりとかは

全然ないの。ただ確認したかっただけだから」

「……それより、さっきの質問に答えてくれ。お前がそう思う理由は何だ?」

 ここで理沙は表情を変えた。彼女のイメージからはかけ離れた、暗く沈んだ陰鬱な表情に。

「私もそうだから……だから分かるの。悠介は私と同じだって」

「え……?」

 

「私も、プログラムの優勝者なの」

 

「――――!!」

 

 いきなり告げられた友人の過去に、悠介はただ呆然とするしかなかった。

 そんなことは想像したこともなかった。自分と同じ学校、それもこんな身近に自分と同じ、プロ

グラムを経験したものがいるなんて。

 

 プログラムに選出されるクラスは年に五十クラスだから、同じ県内に移される可能性も無いと

はいえない。だがそれにしても、同じ高校で同じクラスになるなんてどれくらいの確率なのだろう

か。ひょっとしたらプログラムに選ばれることよりも珍しいことかもしれない。

 

「初めて悠介を見たときさ、なーんか私に似てるなあ、って思ったんだよね。無理に明るく振舞

おうとしているところとか、たまに凄く悲しそうな顔していたりとか。それに中学三年生のあの時

期で転校してくるなんて普通ないでしょ? 何か特別な事情が無い限りは」

 確かに、進路が関わってくる中学三年生の夏前に転校してくる生徒なんてまずいないだろう。

自分のように、かなり特別な理由で転校せざるを得ない場合を除いては。そう考えると、勘のい

い生徒には自分がプログラムの優勝者だと薄々感づかれていたかもしれない。

 

「それが、俺をプログラム優勝者だと思った理由か?」

「うん」

 理沙はあっさりと肯定する。これで自分の考えが間違っていたら、そのときはどうするつもりだ

ったのだろう。考えが浅いんだか深いんだか、いまいちよく分からない。

「私、ここに来る前は北海道にいたの。函館にある中学校に通っていて、東京に修学旅行に行っ

ていた。その最終日、北海道に戻る飛行機に乗って……気がついたときは知らない場所にいた」

 自分と同じだ、と悠介は思った。修学旅行の初日と最終日という違いはあるが、理沙がプログ

ラムに選ばれた経緯は悠介のそれとほとんど違いがない。

 

「おい、俺はまだ優勝者かどうか言っていないんだぜ? そんな奴にこんな話をしていいのかよ」

「いいの」

 それは躊躇いのない、はっきりとした答えだった。

「もし違っていても、悠介だったら別に構わないし」

 それは自分を信頼しているということだろうか。悠介と理沙はそれほど付き合いが長いわけで

はない。下手をしたら自分の居る場所をなくすような話を、本当に信頼できるか分からない相手

に話してもいいのだろうか。

 

「お前は――」

 言いかけて、悠介は彼女の気持ちを理解した。

 理沙は自分の悩み、苦しみを誰かに聞いてほしかったのだ。プログラムで受けた恐怖、それに

伴う悪夢、罪悪感、数々の苦しみ。それを誰かに聞いてほしかったのではないだろうか。

 

 プログラムに選ばれたということをカミングアウトすることはかなりの勇気がいる。受け入れられ

ても同情と哀れみの目で見られるかもしれないし、下手をしたらそれまで親しくしていた友達から

距離を置かれるかもしれない。理沙はそれが怖くて、話しても大丈夫だと信じた相手、つまり悠介

にその事実を告白したのだろう。

 

「……お前、凄いな」

「え?」

「俺だったら、自分がプログラムに選ばれたなんてこと誰かに言えないと思う。周りに自分と同じ

優勝者なんじゃないかって奴がいたら言いたくなる気持ちは分かるけど、俺は多分……言えない

んじゃないかな。なんか情けないけどさ」

 もう、自分が優勝者であることを隠そうなどとは思っていなかった。理沙は覚悟を決めて自分に

優勝者であることを打ち明けてきたのだ。なのに自分だけ隠し通すなんて卑怯な真似はできな

かった。

 

「お前が思っている通り、俺もプログラムの優勝者だよ。ここに来る前までは新潟に住んでいて、

去年の五月にプログラムに選ばれた」

「……やっぱり、そうだったんだ」

「ああ」

 アイスコーヒーの入ったグラスに手を伸ばし、ストローを使わずに一気に飲み干した。

 

「悠介はさ、プログラムでの殺人って許容できる?」

「許容も何も……俺は前のクラスで孤立してたからな。仲のいい奴……っていうか、凄く大切な人

が一人だけいたんだ。そいつ以外はどうなろうと知ったこっちゃないって思ってたんだよ」

「……じゃあ、誰か殺しちゃったりしたの?」

 理沙は不安そうな口調で言う。

「九人」

 その言葉が放たれた瞬間、空気が一瞬にして張り詰める。

「九人殺した。前のプログラムでは」

 悠介の台詞に理沙はごくりと唾を飲み込む。驚愕――というより、戦慄しているといった方が

正しいだろうか。

 

「で、でもその中には正当防衛もあるでしょ? 自分の身が危ないから仕方なく、とか――」

「あったけど、ほとんど自分から相手を殺したんだよ、俺は。さっき言った凄く大切な人、つぐみ

っていうんだけどさ、そいつを死なせたくなかったから、あいつの敵になりそうな奴は片っ端から

殺していった。そうすることしか思いつかなかったんだよ。俺、クラスの奴らに信用されていなか

ったし」

 

 つぐみを死なせないために、敵と成り得る生徒を全て殺す。あの時はそれが正しいと思ってい

たし、それは今でも変わらない。ただこれを聞いて理沙は何て思うだろうか。自分を軽蔑したり

するだろうか。

 

「そんなことまでしたのに、俺はつぐみを守ってやることができなかったんだ。目の前であいつが

死んでいくのを見ているしかできなかった……」

 自分の腕の中で冷たくなっていくつぐみの身体。光を失っていくつぐみの瞳。それらの感覚、光

景は今でも脳裏に焼き付いている。

 

「私は……」

 理沙は手前に置いてあるコーヒーカップを両手で包み込んだ。その中にあるカプチーノに視線

を落とし、囁くような口調で続ける。

「好きな人のためにそこまでした悠介が凄いと思う」

 悠介は薄く微笑み、

「ありがと。お世辞でも嬉しいよ」

「お世辞なんかじゃないよ。私じゃそこまではできない。好きな人のためにそこまでする勇気なん

か、私にはないから」

 理沙は笑っていた。内に隠された傷口をごまかすように笑っていた。

 それはいつもの理沙の笑顔ではない、とても悲しそうな笑顔だった。見ているものの心を締め

付けるような、今にも壊れてしまいそうな表情。

 

「……何かあったのか?」

「え?」

「プログラムで何かあったのか? お前は話を聞いてもらうために俺をここに呼んだんだろ?

だったら話してみろよ。それでお前の気持ちが楽になるんだったら、俺も嬉しいし」

 理沙はしばらく黙ったままだった。宙を彷徨う視線はどこか遠くを見つめているようで、とても切

なそうな様子だった。それは感情を隠そうとせず、すぐに表に出してしまう彼女だからこそなんだ

ろう。

 

 今の理沙の気持ちが、悠介も何となく理解できたような気がする。

 長い沈黙の後、理沙はすっかり温くなってしまったカプチーノを一気に飲み干し、「ふう」と溜息

をついた。

 

「私ね、悠介と逆なんだ」

 悠介が「逆?」と言うと、理沙は「うん」と言って頷く。

「前の学校で付き合っている人がいたの。面白くてカッコよくて、一緒にいて凄く楽しかった。二年

生の春辺りから付き合っていたから、私たちは心が通じ合っているって思っていた」

 理沙の唇は少し震えている。

「でも、違ったんだよ。それは私の勝手な思い込みだったんだって、プログラムで気づかされたん

だ」

「それはどういう……」

「私、その人に殺されかけたから」

 重要な事柄を、さらりとどうでもいいことのように言い放つ。

 

 

 

「プログラムが始まってすぐに合流して、それからしばらく一緒にいたわ。でもだんだん人数が減っ

てきて……生きている人が一桁になったところで、私はその人に銃で撃たれた。”お前のことは大

切だけど、俺はまだ死にたくない”って言われてね」

 

 悠介は息を呑んだ。好きな人に裏切られる――そんなこと思いつきもしなかったが、よく考えれ

ばこれほど恐ろしく悲しいことはない。もし自分がつぐみにそうされたら、と思うとぞっとする。

 だが悠介は、当時の理沙の恋人を責める気にはなれなかった。その彼だって理沙を殺したくな

んかなかったはずだ。プログラムの恐怖に押し潰されながら必死に抗ってきて、ついに限界がき

てしまったんだろう。その選択を選ぶということは、理沙の恋人にとって身を切られるような思い

だったのではないだろうか。

 

「それで、その相手は?」

「…………私が、殺したわ」

 理沙の唇が弧を描く。自嘲的な、見ている側の心が締め付けられるような――傷だらけの笑顔

だった。

 

「自分でもなにをやったのか全然分からないの。ただ気がついたらあの人が死んでいて、私の手

には血まみれのナイフがあった。あんなに好きだった人を殺したのよ、私」

「……でもそれは、殺されそうになったから仕方なくやったんだろ? さっきお前が言ったように、

それは正当防衛じゃないか」

「うん、そのことは別に気にしていないの。私も自分で何がなんだか分からなかったから、あの人

を殺したって実感は全然ないし」

 

 人を殺したことによる罪悪感に苦しんでいないということは、彼女にとって不幸中の幸いと言え

るだろう。もし彼女がそれに苛まれていたら、こうして自分と会話をしていることなんてできていな

かったかもしれない。

 この直後に悠介は知ることになる。プログラムから生まれた罪悪感と同じくらいにドス黒く残酷

な影が、今もなお理沙を苦しめているということに。

 

「私が悩んでいるのは殺人による罪悪感じゃなくて、彼氏に殺されかけたってことによる恋愛感の

変化」

「好きだった……信頼していた人間に殺されかけたから、誰かを好きになれなくなったってことか。

いや、好きになれなくなったっていうより”怖くなった”……」

 

 プログラムは殺人による罪悪感ではなく、好きな人に殺されそうになったことによるトラウマを理

沙の心に植え付けていた。恋愛に関する恐怖、裏切られることによる絶望。好きな人が現れても、

心から信じることができない。プログラムでの出来事がフラッシュバックしてストッパーが働いてし

まうのだろう。それも自分の意思とは関係なく、本能的に。

 

「何でなのかな……プログラムが終わって、やっと普通に暮らせるって思っていたのに、何でこん

な目に遭わなきゃいけないのかな。私たち、何か悪いことしたのかな」

 この言葉を最後に、滝本理沙はそれから一言も口にしなかった。痛みに耐えるような、沈痛さが

浮かんだ表情をしている。彼女のその様子を見て悠介は何も口にすることができなかった。今の

理沙に対してどんな言葉をかければいいのだろう。ありきたりの言葉を口にしたところで、理沙を

惨めな気持ちにさせてしまうかもしれない。

 

 悠介は理沙の顔を見つめたまま、ただ黙っているしかなかった。つぐみのときと同じだった。肝

心なところで、自分は何もしてあげることができない。誰かを救うことが、力になってあげることが

できない。

 

「……そろそろ出よう」

 結局、そんなことしか言えなかった。大切な言葉をかけてやれない自分自身に、どうしようもなく

腹が立った。

 

 

 

 

 

 話をしているうちにかなり時間が経っていたらしい。喫茶店を出ると辺りはすっかり暗くなってい

た。時計を見るともう六時を回っている。

 駅に向うまでの道中、悠介はこの気まずい空気をどう解消しようかと考えを巡らせていたが、

意外なことに理沙はそれほど落ち込んではおらず、いつも通り積極的に話を振ってきた。始めに

彼女は、お互いの秘密を打ち明けようと言っていた。誰にも言えなかったことを今日は言うことが

できて、精神的に軽くなったのかもしれない。

 

「今日はごめんね」

 理沙は申し訳なさそうに苦笑いしている。

「なんだか私が一方的に愚痴をこぼしちゃったみたい」

「気にするなよ。一人で溜め込んでおくよりはずっとマシだろ」

 また空気を重くするのもどうかなと思ったので、悠介はちょっと茶化す感じで笑ってみた。

「誰にだって悩みの一つや二つはあるからな」

「じゃあ悠介にも、私みたいな悩みがあるの?」

「俺の場合はふっきることができなくて困っているって感じなんだけど……」

 それで悠介の心境、悩みを察したらしく、理沙は「ああ、なるほど」と言って頷いた。

 

「お互い大変よね」

「……そうだな」

 不思議だった。自分よりもずっと辛い体験をしているはずなのに、何で理沙はこうして笑ってい

られるんだろう。ずっと隣にいてくれた人に殺されそうになって、プログラムが終わった今もその幻

影に苦しめられているのに、理沙は自分よりもずっと堂々としていた。

 

 それはまるで、前に進むことを完全に諦めてしまっているかのようで。

 傷つきもしないけれど進展もしない。プログラムの傷跡による疼きに耐えながら、彼女はそこで

立ち止まっている。先の見えない未来、再び訪れるかもしれない悪夢に怯えながら。

 これじゃまるで、自分と同じではないか。

 

 悠介はこの現状をどうにかしようと必死に抗っている。しかし彼女は逆だ。何もしようとしていな

い。それでは何の解決にもならないと悠介は理解しているから、だからこそ彼には今の理沙の姿

がとても悲しく見えてしまう。

 

 やがて駅に辿り着き、改札口の前で理沙が立ち止まった。

「じゃあ私、こっちのホームだから」

 理沙が指差したホームは、悠介が乗る電車が来る場所と反対側だった。

「今日は本当にありがとう。いろいろ話すことができて嬉しかったわ」

「礼なんか言わなくてもいいよ。そんなことしたつもりないし」

 自分は理沙の話を聞いて、少し意見を言っただけだ。なので礼を言われると謙遜してしまう。

「じゃ、また明日学校で」

「ああ。じゃあな」

 理沙の姿が遠ざかっていく。あの小さな背中に自分と同じくらい、もしかしたらそれ以上の悩み、

苦しみを抱えているのかと思うとやるせない気持ちになる。

 

 ――本当に、これでいいのかよ。

 

 理沙は現状を受け入れてしまっている。プログラムの陰に縛られたまま生き続けようとしている。

快活な普段の姿の裏に隠された、今にも砕けそうな痛々しい笑顔。あれを残したまま、彼女は一

生を過ごすつもりでいるのだろうか。

 

 

 

「――滝本!」

 気がついたら理沙の後を追っていた。理沙は改札口に定期券を通そうとしていたが、先ほど別

れた悠介がやってきたことに驚きを見せていた。

「な、なに? どうかしたの?」

「――お前、本当に今のままでいいのか?」

「今のままで、って……」

「またあんな目に遭うのが怖いから誰かを好きにならないなんて、本当にそれでいいのかよ」

「…………」

 理沙は憮然とした表情を浮かべ、そのまま押し黙った。

 

「そんなんじゃプログラが終わったのに、まるで今も政府の奴らにいいようにされているみたいじゃ

ねえか。お前はそれで本当にいいと思ってるのか? そんなんで納得できるのかよ」

「そんな……だってまたあんなことになったらどうすればいいの? 私だってなんとかしたいって

思っているけど、でも、でも怖いのよ……」

「先がどうなるかなんて不安は誰だって抱えているんだ。大切なのは先が見えなくても、可能性を

信じてそこに進んでいく勇気なんじゃないか?」

 

 悠介はそれを多くの人に教わった。プログラム中、危険に身を晒しながら自分を探し出し、告白

してきた井上凛。自分を必要としてくれたつぐみからは、自分が持っていない大切なことをたくさん

学んだ。村崎薫は、自分に未来への可能性を示してくれた。

 

 たくさんの人の後押しがあったからこそ、悠介は先の見えない未来へと進むことができた。未来

を切り開くことの大切さを学んだ。今度は自分が、立ち止まっている理沙の背中を押してやる番

なんだ。

 

「プログラムが終わった後、夢の中につぐみが出てきて言ったんだ。私の思い出に縛られないで、

新しい思い出をたくさん作ってほしいって。俺にもお前と同じような悩みがあるし、今はまだつぐみ

が言ったとおりになっているわけじゃない。でも俺は、あいつの言ったようにプログラムの影を断

ち切って新しい思い出をつくっていくつもりだ。そうやってやることが、死んだあいつに対する弔い

になるんじゃないかって思っている」

 自分たちの横を学生や会社員が次々と通り過ぎて行く。ホームに電車がやってきて、ぷしゅー、

という音と共に扉が開いた。急ぎ足で歩いて行く人間たちの中、悠介と理沙だけがそこに立ち止

まっていた。

 

 理沙は悠介の言葉に込められた、彼が過ごした日々、体験した出来事、今も心に残る想い出の

実感に気圧されつつ話に耳を傾ける。

「プログラムのことを忘れるってのは簡単なことじゃないってのは俺も分かってる。現に俺だってそ

れで悩んでいるし」

 悠介の言葉は理沙だけではなく、自分自身にも向けられていた。理沙に力を与えるために、己

を鼓舞するために口から発せられる言葉一つ一つに強い想いを込める。

 

「でも、いつまでもそのままじゃダメなんだ。プログラムで死んでいった奴らが願ったのはこんなこ

とじゃない。俺たちはあいつらの分まで幸せにならなきゃいけない。それなのにいつまでもこんな

ザマじゃ、死んでいったあいつらに顔向けできないと思うぞ、俺は」

 

 これは、一年前の悠介からは考えられない言葉だった。

 悠介は自分の口から自然と出てきたこの言葉に驚き、理沙は優しさと厳格さが混じった悠介の

言葉に強い尊敬の念を抱いていた。

 

「――でもまあ、今すぐそうしろってわけじゃねえから。行き急がないで、自分のペースで確実に

克服していけばいいんじゃねえかな」

「悠介……」

「うん、まあその……俺が言いたいのはそういうことだから」

 悠介は照れくさそうに笑い、理沙の肩をぽん、と叩く。

「ほら、急がねえと電車に遅れるぜ」

「え? ――あ、ヤバッ!」

 既に発射時刻ギリギリだということにようやく気づき、理沙は慌ててホームへ駆け出していった。

 

「誰かにアドバイスするってガラじゃねえよなぁ……」

 その光景を見ながら、悠介は苦笑いを浮かべつつ独りごちる。自分も理沙と同じような立場な

のに、気がついたらいろいろと偉そうなことを言ってしまっていた。でもまあ、これで理沙が過去の

ことを少しでもふっきることができたのなら、それは悠介にとっても非常に喜ばしいことだった。

 

 プログラム終了後に村崎が言っていたことを思い出す。彼女は、優勝者をプログラムの悪夢か

ら立ち直らせるためにあえて担当官を志望したのだと。

 悠介は村崎が提案した東京行きを承諾したが、その時は村崎がしているように誰かを助けよう

とする気なんてなかった。だが今は、理沙の力になろうと必死になっていた。村崎の気持ちが、

何となく分かったような気がする。

 

「悠介!」

 突然聞こえてきた声に悠介は視線を彷徨わせる。気がつくと、ホームに止まっている電車の前

で理沙がなにやら叫んでいた。

「今日は本当にありがとう! やっぱ私、あんたに言って良かった!」

 そう言い放つと、理沙はニッコリと笑って電車に飛び乗った。それとほぼ同時に扉が閉まり、ゆっ

くりと電車が動き出す。

 

「あの馬鹿……せめて場所を考えて言えってんだ」

 理沙の声はやたらと大きかったため、一人残された悠介は周りにいる人間からの視線を集めて

いた。しかもさっきの状況からしてバカップルとでも思われているのか、何人かの女子高生が楽し

そうな顔でヒソヒソと話をしている。これはもう恥ずかしいなんてもんじゃない。悠介はこの場にい

ることが耐え切れなくなり、逃げ出すように自分が乗る電車の来るホームへと走り出していった。

 

 ――やっぱ俺って、女に振り回されてばっかだなぁ……。

 喫茶店で思った”自分は一生女性の尻に敷かれ続けるのかも”という考えはかなり当たっている

のでは、と思い、悠介は少し憂鬱な気持ちになった。




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