その少年は学校の屋上で一人空を見上げていた。この学校の屋上は施錠がされておらず、

どんな生徒でも自由に出入りできるようになっている。そのために天気の良い昼休みなどは

ここで昼食を食べたり遊んだりする生徒が多く、授業をサボりがちな生徒にしては格好の逃げ

場所というわけだ。

 

 季節が五月の下旬と言うこともあり、屋上は暖かい陽光で照らされ、春の風が気持ちよく流

れている。下は固いコンクリートだが、横になっていたら気づかずに寝てしまいそうな天気だっ

た。

 五時間目は確か地理だったはずだ。だったらサボっても問題はないだろう。地理を担当して

いる教師はこういうことに甘いし、ノートもクラスの奴から見せてもらえばいい。昼食のサンド

イッチを食べながら、浅川悠介はそんなことを考えていた。

 

 悠介の隣では、食事を終えた女子生徒数人が大声で笑っている。嫌でも聞こえてくる会話の

内容から察するに、どうやら授業中居眠りをしていて寝ぼけてしまったようだ。

 反対側では上級生とおぼしき男子生徒が数人、持参したであろう玩具のバットと体育用具室

からくすねたと思われるソフトボールを使って野球をしている。今ピッチャーをやっている生徒

は野球部のようで、その友人たちは彼の球を打とうと代わる代わるバットを握り締め挑戦して

いた。

 

 どこにでもあるような学校の昼下がりの風景。当然といえば当然なのだが、恐ろしく平和な

感じである。

 

 

 

 ほんの一年前の今頃、命の危機に晒されていたことが嘘みたいだった。

 

 

 

 あのプログラムから、ちょうど一年が経過していた。悠介は自分が優勝したプログラムの担

当官をやっていた村崎薫という女性に同行し、大東亜の首都である東京に引っ越していた。

両親も親しくしていた友人も全て失った悠介にとってあの街に固執する理由はなかったし、あ

そこで無意味な時を過ごすよりは新たな可能性を見つけるために東京に出たほうがいいかも

しれない、と思ったからだ。

 

 こっちに越してきてすぐ、悠介は新しい中学へと転校した。高校受験を控えている三年生の

一学期に転校生なんて不審に思われたかもしれないが、転校先の中学でのクラスメイトはそ

のことに触れようとせず、「これからよろしく」と何人もの生徒が自分に手を差し出してきた。

 

 プログラムで優勝したことにより、悠介の心境には若干の変化が見られていた。以前のよう

に他人を拒絶するような態度は取っていないし、いろいろなことに積極的に取り組むようにな

っていた。愛想が良くなかったり口数があまり多くなかったりなど基本的な部分は変わってい

ないが、一年前と比べると随分と前向きになっている。本人が自覚してやっているのか、それ

とも無意識のうちのことなのかは定かではないが。

 

 転校先の中学校で残されたわずかな時間を過ごし、悠介は都内にある私立高校へと入学

した。さすがこの国の首都ということもあり、選択できる学校の数はかなり多かった。担任との

相談を経て、悠介は自分の今の実力で行ける高校に入ることにした。頑張ればもっと上を狙

えるとも言われたのだが、無理をしてレベルの高い高校に言っても後で大変になるだけだと

考え、進路希望は変えなかった。

 

 そして高校に入学し、早くも五月が終わろうとしていた。中間テストの時期がそろそろ近付い

てきている。高校でのテストはやはり難しいのだろうか。考えれば考えるほど憂鬱になる。

 こうしていると、俺って普通に学生やってるんだなあ、と思えてきてしまう。他の生徒と変わら

ぬ平穏な生活。それは悠介にとってとても大切なことだった。

 自分は三十七人もの犠牲の上に生きている。普通に学校へ行くことができ、普通に生活で

きることを幸せに思うべきだ。しかしそれと同時に、自分だけがこんなことをしていていいのか

とも思う。

 

 ――いや、それを考えるのは止めよう。

 

 プログラムに優勝した後、悠介は前を向いて歩いていこうと心に決めた。自分のために死

んでしまったつぐみを悲しませないために、精一杯生き抜いてやるんだと誓ったはずではない

か。それなのにこんなことを――ようやく取り戻した日常を惜しんだりしていたら、逆につぐみ

たちに失礼だ。悠介は自分の考えを改め、深く反省する。

 

「あ、あの……」

 コンビニで買ってきたカップサイズのコーヒーを飲んでいると、横から今にも消えてきそうな

弱々しい声が聞こえてきた。

 そちらを見てみると、横に女子生徒が二人、悠介を見下ろすように立っていた。

 

 そのうちの一人は知っている顔だった。転校先の中学校で同じクラスだった女子生徒で、高

校に進んだ今も同じクラスになっている滝本理沙(たきもと りさ)だ。肩にかかるセミロングの

黒髪は綺麗なストレート。見た目は元気いっぱいの女子高生という感じで、肝心の中身もその

通りという実に分かりやすい少女である。高校に入ってまだ間もないというのに、彼女はすっ

かりクラスの中心人物になっていた。理沙は悠介と同じ転校生で、悠介と同時にこっちの中

学に転校してきた。明るく社交的な性格なので、今では地元との人間と変わらないように振舞

っている。

 もう一人の少女に関してはよく分からない。顔は見たことがあるんだけど、名前が出てこなか

った。同じクラスかどうなのかさえも分からない。理沙とは違う真面目そうなイメージが外見か

ら窺える。

 

「よっす」

 手を上げ、人懐っこそうな笑みを浮かべる理沙。

「よう」

「ねえねえ悠介、今ちょっち時間ある?」

「別に何も用事はないけど」

 いったい何のようだろう。悠介の頭にまず浮かんだのはそんなことだった。

「で、俺に話って何だ?」

「違う違う。話があるのは私じゃなくて、こっちの五十嵐さんのほう」

「五十嵐?」

 悠介は再び理沙の隣にいる少女に視線を移す。悠介は頭の中で必死に検索をかけるが、

その名前に該当する記憶や人物は浮かんでこない。

 

「うん、同じクラスの五十嵐さんだよ」

「ふーん」

「……もしかして覚えていないとか言わないよね?」

 そのもしかしてである。悠介は目の前の人物が誰なのかまったく分からなかった。

「えーっと…………」

 はっきりと言うのは悪いと思って言葉を濁したが、五十嵐という少女にとってはそっちのほう

がショックが大きかったらしい。誰の目からでもはっきりと分かるほどの落胆の色を浮かべ、

顔を俯かせてしまう。

「ひょっとして、そのもしかしたりだったり?」

「正解」

 理沙は大仰に、「ガーン!」とびっくりしたようなポーズを取った。

 

「酷い酷いよ酷すぎる! あんたは鬼か悪魔かこの鬼畜外道! 同じクラスになってもう一ヶ

月も経つっていうのにクラスメイトの顔すらまともに覚えていないの?」

 理沙にとっては一ヶ月も、だが、悠介にとってはまだ一ヶ月しか、だ。もともと人の名前を覚

えるのは苦手なのに、今日まで何の関わりもなかった少女の名前を覚えているなんて無理な

注文というものだ。

 

「それはまあいいとして、五十嵐さん……でよかったんだよな。俺に話ってなんだ?」

 理沙は自分の後ろに隠れるようにしていた五十嵐という少女を前に出し、なにやら小さい声

で話をしている。「ファイト!」とか何とか言っているが、いったい何のことだろうか。まさかケン

カの申し込みではあるまいし。

「あの、えっと……」

 しばらくしてから五十嵐一美(悠介は下の名前を知っていないが)が声を出した。言いにくい

ことなのか、小さく口をパクパクさせるばかりで肝心の話に移ろうとしない。

 

 そんな彼女の様子を見ていて、悠介は舞原中学で一緒のクラスだったある少女の事を思い

出した。彼女も一美と同じように、人前に出るとやたらオドオドしていた覚えがある。あの島で

出会ったときもそうだった。ただそれは外見からのイメージで、実際は勇気がある芯の強い子

だったけれど。

 

 時計を見ていたわけではないから正確な時間は分からないが、恐らく三分は経っているだ

ろう。なのに一美は顔を真っ赤にして突っ立ったまま、何も言おうとはしない。いや、言いたい

のだけれど言えない、といったところだろうか。

 ここまでくるとさすがに鈍感な悠介にも事態が読めてきた。困ったように頭をかき、どうした

もんかと溜息をつく。悠介にとっては何気ない行動だったが、一美にしてはそれがよくなかった

らしい。自分に呆れられたと勘違いしたのか、今にも泣きそうになっている。

 

 ヤバイ。このままでは自分が悪者になりかねない。実際一美の隣では理沙が鬼のような、と

まではいかなくても、かなり憮然とした表情を浮かべている。

 

「あのさ、五十嵐さん。話しにくいことだったら放課後に改めてってのはどうだ? ここは今人

が多いし、聞かれたくないことだったらそっちのほうがいいと思うんだけど」

 場所を変えても似たような状況になることは予想が付いていたが、誰かの邪魔が入らない

だけそっちのほうがマシだと思った。それに、この気まずい状況を打開できるのであればなん

だっていい。

 

 

 

 その後もいろいろと話を交わし、この場は悠介の案を受け入れる形で納まった。

 

 

 

「――じゃあお前、その子のこと本当に全然知らなかったわけ?」

「ああ」

「うわ、お前そりゃちょっと失礼なんじゃねーか? 向こうは勇気出してお前のとこまで来てくれ

たってのに」

 昼休みが終了し始まった五時間目は、教科担当の先生が午後から用事が入ったため急遽

自習になった。そして自習と言われて真面目に勉強する生徒なんて数えるほどしかいない。

悠介も早々に勉強道具を片付け、読みかけの文庫本を読んでいた。

 

 読書中の悠介に話しかけてきたのは、前の席にいる朝霧明人(あさぎり あきと)である。軽

そうな感じの薄い茶髪、ラフに着ている制服。どこにでもいる、遊び歩いていそうな男子高校

生といった感じだ。だが見た目に反して中身はしっかり者で、いざというときに頼りになるタイ

プだったりする。彼も転校先の中学で同じクラスだった生徒で、理沙と同じく高校に進んでも

同じクラスだった。こちらでできた友人の一人である。

 

「失礼って言われてもなぁ……覚えてないもんは覚えてねーし。だいたいお前、関わりのない

奴の名前なんてご丁寧に覚えないだろ。先月同じクラスになったばかりだってのにさ」

「俺はお前と違って女の子の名前はチェック済みなのだよ浅川くん」

 理沙と同様、明人も早速このクラスの中に溶け込んでいた。もう既に他のクラスにも友人を

何人か作っており、休日は何人かで遊びに出ているらしい。悠介も一度誘われ、ついていった

ことがある。悠介はそういうところに積極的ではないので、彼のそういうところは少し羨ましか

った。

 

 悠介は明人に昼休みに起きたことを一通り、分かりやすく話した。あの場でははっきりしな

かったが、彼女――五十嵐一美は間違いなく悠介に告白しようとしている。あの場面は何と

か切り抜けたものの、恋愛関係に疎い――というか鈍感な悠介は彼女に対してどういう風に

言ったらいいのか分からなかった。なのでこういった方面に関しては自分よりも遥かに詳しい

であろう明人に相談してみることにした、というわけである。

 

「でもまあ、その後のお前のフォローは良かったんじゃねえの? 五十嵐さんにしてみたって

お前と二人きり、邪魔が入らないところでってシチュエーションのほうがいいに決まってるしな」

「まあな……つーか俺はあの場であんな展開になるとは思ってなかったんだけど」

「どーせ理沙が強引にけしかけたんだろ。あいつ細かいところまで気が回らねえからなぁ」

「同感」

 悠介は頷き、読んでいた文庫本に栞を挟んでぱたんと閉じる。MDを取り出して音楽を聴こ

うとしていると、明人が「そういえばさ」と新しい話題を切り出してきた。

 

「肝心なこと聞いてなかったけど、お前五十嵐さんと付き合うつもり?」

「いや、今のところそういうつもりはない」

「マジで? 地味だけど結構可愛いじゃん。もったいねーなぁ」

「仕方ねえじゃねえか。俺、五十嵐さんのこと全然知らなかったんだし」

「たまーに結構酷いこと言うよな、お前って」

 明人はカバンからペットボトル飲料を取り出し、キャップを開けてそれを口にする。

 

「自分じゃ気づいてねえかもしれねえけど、お前って結構モテるんだぜ」

「――は?」

 悠介は口をぽかんと開け、固まってしまった。「冗談だろ」と明人に言ってみたが、「マジで」

という答えが返ってきた。

「キャーキャー言われるっていうより、どっちかってーと裏で噂になってるってタイプだな。中学

のときもお前のこと気にかけている奴が何人もいたんだぜ。知らなかっただろ?」

「……知らなかった」

「おいおい、まるで自覚無しかよ」

 明人は頬杖を突き、呆れたように溜息をつく。

 

「とにかく、お前はモテるんだよ。認めたくねえけど。それなのに彼女の一人も作らないで、告

白してくる人をこの調子で断りまくっていたら誰かに恨まれることも考えられるぞ」

「何だよ、それ」

 悠介もこれにはさすがに不満げな声を漏らす。自分だって付き合う相手を選ぶ権利はある

はずだ。断ることがいけないことなのだろうか。

「なんか付き合えない理由とかあるのか?」

「理由っていうか……忘れられないんだよ」

「はあ?」

 今度は明人がぽかんとする番だった。

 

「忘れられない? 誰をだよ」

「あ、いや……なんでもない。聞かなかったことにしてくれ」

「ひょっとして元カノか?」

「…………似たようなモンだよ」

 そう言って悠介はMDのイヤホンを耳につけた。悠介の表情、口調から何かを感じ取ったの

か、明人は「そっか」と言うだけでそれ以上追求してこなかった。




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