試合開始前  2004年 春





        人生は無限の可能性に満ちている。

        どこの誰が言ったのか分からないが、陳腐な台詞だ。

        こんな子供だましの台詞で希望を見出す奴の気持ちが分からない。

        だってそうだろう? 無限の可能性に満ちているという点では正解かもしれないが、
                            
       それが『良い可能性』だとは限らないのだから。

 

 

        窓から射し込む夕日を浴びながら、俺――浅川悠介は屋上へと続く階段を昇っていた。

        今日の授業は終わり、学校に残っているのは教師連中と部活に取り組んでいる奴らと俺の

        ような暇を持て余している酔狂な奴ぐらいだ。

        俺は屋上に特別な用があって行くわけじゃない。寝転がって空を見上げたり、本を読んだり、
                      
       煙草を吸ったり。まあようするに暇潰しだ。部活にも入っておらず、家に帰ってもすることがない
                      
       俺にとってあの場所は、時間を潰すのに好都合な場所だった。

        階段を一歩一歩昇るにつれ、屋上への扉が近づいてくる。普段は鍵がかかっていて生徒が
                       
       入れないようになっているが、ネットでピッキングの方法を探ればそれほど苦労せずに開けら
                      
       れる。ちょっと洒落たプライベートスペースというわけだ。

        いつも通り鍵穴の前で作業をしようとして――俺は妙な事に気づいた。

       「……開いてる?」

        そう。いつもならば閉まっているはずの鍵が今日に限って開いているのだ。この扉の先に誰か

       かいるのだろうか。

        怪訝には思ったが、ここまで来て引き返すのも何だかなと思い、俺は扉を開けた。

 

 

        オレンジに染まる空。ビルが建ち並ぶ新潟の街並み。わずかに見える、夕日に染まる日本海。

        いつも通りの景色、いつも通りの時間帯。見慣れた風景の中で、ただ一つ見慣れぬ姿があった。

        柵の前に立ち、空を見上げている一人の女子生徒。ブレザーにチェックのスカートを身に付けて

       いる姿から、舞原中学の生徒であることが見て取れる。というか部外者だったらそれはそれで問

       題だが。

        屋上に出入りし始めてそれなりになるが、こんなことは今まで一度も無かった。それよりもこいつ

       はどうやってここに入ったのだろう。俺のように何らかの技術を使って忍び込んだと考えるのが一番

       妥当な線で、一番可能性のある方法だが……。

        俺の気配に気づいたらしく、その女子生徒はこちらを振り返った。
                    
       「…………」

        綺麗な少女だった。頭のいい奴ならそれらしい形容の仕方をするのだろうが、俺には『綺麗』としか

       言い表せなかった。

        スレンダーな体型にきりっとした顔立ち。中学生にしては大人びており、高校生と言われても信じて

       しまいそうだった。髪は肩にかかるくらいの長さで、モカベージュ色に染まっている。この学校は原則

       として髪を染めるのが禁止されているので、髪を染めている生徒が誰なのかはすぐに分かる。

        俺と同じクラスで、年末に生徒会総務に立候補した物好きな生徒……雪姫つぐみだ。

        こうやって正面から顔を見た事が無かったから分からなかったが――こいつって凄い美人なんだな。

       「こんにちは」

        雪姫は小さく頭を下げながら、俺に微笑んだ。

       「……こんにちは」

        挨拶を返す。すると何が可笑しかったのか、雪姫はくすくすと笑い出した。

       「何だよ」

        俺が憮然とした顔をしていると、雪姫は手を振って「ごめんごめん」と言ってきた。

       「君さ、私と同じクラスの浅川悠介くんでしょ? 結構有名人よ、君。不良って聞いてたんだけど、案外

       礼儀正しいんだね」

        彼女の言うとおり、俺は周りの人間から『不良』という認知を受けている。優秀な生徒が揃っている

       この学校では、俺のような存在はほとんどいない。とはいえイジメや喧嘩、万引きといった事は一度も

       した事が無い。偉そうに命令してくる教師連中に歯向かっていたら、いつの間にか周りからそういう目

       で見られていた。誤解といえばそうかもしれないが、不良として避けられている方が煩わしい人間関係

       を作らなくて済むから弁解はしていなかった。

       「挨拶をされたら返すのが当然だろ。それともお前は違うのか?」

       「うーん、そういうわけじゃないわよ。私のイメージとちょっと違っていたから、意外に思っただけ。気を悪

       くしたんだったら謝るけど」

       「いいよ。別にそれほど怒ってないし」

        屋上に足を踏み入れ、壁に寄りかかってポケットから煙草を取り出す。

       「煙草、吸うんだ」

        雪姫は少し意外そうな顔をしている。

       「ああ。つっても一日にニ本くらいだけどな」

        手にした煙草を口に咥え、ライターを取り出す。

       「おせっかいだけど……身体のことを考えたら止めた方がいいんじゃない? まだ未成年なんだし」

       「お前には関係ないだろ」

       「そりゃそうだけどさ、今から吸ってると後々大変じゃない? せめて二十歳になってからにしなよ」

        教師のようにしつこく言ってくる。こういうことはもう慣れっこなので、無視して吸おうとした。

        ところが。

        俺の指先にあった煙草の感触が、火をつける直前でいきなり消失した。

       「だからさ、止めた方がいいって」

        目の前には煙草を持った雪姫が立っている。いつの間にか近づき、俺の煙草を奪い取っていたのだ。

        これには流石の俺も、軽く頭にきた。

       「何すんだよ」

        取り返そうと手を伸ばすが、触れる直前で空しく空を切る。

       「人の忠告は素直に聞いておいたほうがいいよ」

        おどけたようなその口調が、余計に俺の神経を逆撫でした。

       「てめえ、いい加減に――」

        雪姫に掴みかかろうとしたその瞬間、足に衝撃が来て身体に軽い衝撃と痛みが走った。

        どうやら足払いをくらって転倒させられたようだ。まだ痛みはあるが、たいしたことはない。

        それよりも問題は、この女のほうだ。

        俺のプライベートスペースにいきなり現れて、挨拶した事に笑って、煙草を吸おうとしたら注意して、

       挙句の果てに転ばしやがった。こんな事させられちゃ、誰だって腹が立つに決まっている。

        俺は素早く起き上がり――雪姫の顔めがけて拳を突き出す。

        拳はそれなりの勢いを纏って空間を移動し、雪姫の顔へと一直線に突き進む。相手は予期せぬ事態

       に驚いているようだ。このままいけば間違いなく当たる。

        そう、間違いなく。

 


        ……それで、いいのだろうか。

        こいつは嫌な奴だが、よく考えたら悪い事はしてないんじゃないか?

        怒りに身を任せて、無抵抗の女を殴って――俺のほうが、よほど悪い奴じゃないのか?

        もしかしたら雪姫は、本気で俺の身体を心配して言ってくれたかもしれないのに。

        それなのに、俺は――。

 


        雪姫に当たるはずだった拳は急激に減速し、雪姫に当たる直前で動きを止める。

        もとから当てるつもりなどなかったかのように、それは簡単に止まった。

        こいつを殴っても気分が晴れるかどうか分からない。もしかしたら、もっと気分が悪くなっていたかも

       しれない。

        この女は確かにムカつく。けど、何も殴る事はないのではないか。突発的な行動だったが、暴力で相

       手を屈服させようというのは野蛮人のやる事である。世間一般の不良連中ならともかく、俺はそんな

       品位の低い人間ではない。

       そう思うと、先程まで苛立ちで支配されていた頭が一気に落ち着きを取り戻してくる。自分でした事なが

      ら、短絡的な行動に恥ずかしくなった。

       拳を下ろそうとしたその瞬間――俺の左側頭部に、先程のそれを凌駕する凄まじい衝撃が走った。

       一体、何が起きたというのか。

       横ざまに倒れていく俺の視界に映ったものは、右足を上空高く掲げながら呆気に取られた表情をして

      いる雪姫の姿だった。

 

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