試合開始前2





    人間というものは、突発的な事態に対処しきれない時がある。

    そしてそれは、予想もしていなかった事が起きたときほどその可能性が高い。

    それは私にとっても同じ事だ。


   「あっ」

    思わずそんな声が、私の口から漏れた。

    突発的に放たれたハイキックは綺麗な弧を描き、悠介くんの側頭部に直撃した。

    悠介くんがいきなり殴りかかってきたもんだからついついカウンターで合わせてしまった

   が、まさか当たるとは思っていなかった。不良と呼ばれているからこれぐらいの攻撃は避

   けられると思っていたのに。

    そしてもう一つ予想外だったのは、彼が拳を私に当たる寸前で止めてしまったことだ。

    流石にこればっかりは予想できなかった。

    おかげで今屋上に伏しているのは、悠介くん一人という結果になっている。痛そうに頭を

   押さえているけど大丈夫だろう。これでワンワン泣き出したら、それはそれで面白いけど。

    悠介くんはゆっくりと立ち上がり、制服についた汚れを手で払う。

   「お前、いきなり何すんだよ!」

    どちらかというと、それは私の台詞なのだが。

   「確かに最初に手を出したのは俺だし、客観的に見て悪いのも俺だ。でも、でもな!」

   声を張り上げて、必死に自分の意思を伝えている。私は黙って、彼の言葉を聞いていた。

   「今の蹴りはないだろう! 少し意識が飛んだし、めちゃくちゃ痛かったんだからな!」

    彼の目には薄っすらと涙が浮かんでいる。私のキックって、そんなに威力があったんだ。

   道端で変質者に会ったら試してみるのもいいかもしれない。

    そんな事はどうでもいい。とにかくここは、早く謝っておいたほうがいいだろう。

   「ごめん。そんなに痛がるとは思ってなかった。……けどあれは殴られると思ったからやっ

   た事で、君に悪意があってやったわけじゃないから」

   「…………」

    彼は黙り込み、ふてくされたような顔をして扉近くに座り込んでしまった。煙草を吸おうとし

   て懐に手を伸ばしかけたが、私の視線に気がついて手を引っ込めた。

    その動作が何となく可愛く見えて、私はつい笑ってしまう。そんな心境を悠介くんが気付く

   はずもなく、困惑と苛立ちの入り混じった複雑な表情を浮かべていた。


    どれくらいの時間が経っただろうか。

    ここに入ってから一度も時計を見ていないので、今が何時だとか先程の会話から何分が

   経過したのかは分からない。

    私の後ろには、以前として悠介くんが座り込んでいる。あれから言葉は交わしていないし、

   顔も見ていない。空に手が届きそうなこの場所で、赤い夕日が私達を照らしている。

   「……なあ、雪姫」

   「ん?」

   「お前、こんな所で何してるんだ?」

    当然の質問だった。立ち入り禁止の場所に誰かがいれば、訝しく思うのは当たり前だ。

    私はここに来た理由を偽りなく、正直に答える。

   「空を見に来たの」

   「……空を?」

   振り返っていないから分からないけど、たぶん悠介くんは不思議そうな表情を浮かべている

   だろう。

   「私さ、夕焼け空が好きなんだ。青とオレンジが入り混じった何とも言えない色合いに、目の

   前で別の色に染まっていく様子。朝の空も夜の空も好きだけど、私は夕方の空が一番好き」

   「だからここに来たっていうわけか? 空を見るためだけに?」

   「そうよ。地面で見るよりもここで見たほうが近いし、高いところからなら広く見渡せるから」

    舞にも似た軽やかな動きで振り返り、悠介くんの顔を正面から見つめる。

   「綺麗よね……凄く綺麗。人間に羽があったら、この空を飛べるのにね」

    私は両手を広げ、彼を誘うように言う。

    世界から切り離された錯覚を覚えるこの場所で、私と悠介くんはお互いを見詰め合う。

    私の言葉は詩の一節のように軽やかで、この広い空に溶けていった。

   「悠介くんは、空を飛んでみたいと思う?」

   「飛行機に乗れば飛べるだろう」

   「違うわよ。自分の翼でって事。もう、情緒がないなあ」

    どうして男の子って、こういうロマンがない事を言うのだろうか。クールな現実主義者を

   演じれば格好いいというわけじゃないのに。

   「そりゃ、飛べるんだったら飛んでみたいさ。だけど今の科学力じゃ無理だろう、そんな事」

   「だーかーらー、科学とかそういうのじゃないっての。君、人の話聞いてる?」

   「聞いてるよ。『空を飛びたいのか』っていう捉えようによっては自殺志願者に思われなくも

   ない質問にも答えてやった」

   「…………」

    改めて思ったけど、この人性格が曲がってる。こういうタイプはアレだね、好きな子をわざ

   とイジメるタイプだ。確信はないし、ただの想像だけど。

    だから私は、思ったことを正直に言ってやった。

   「悠介くんってさあ……友達いないでしょ」

   「…………」

   「図星?」

    彼は顔を背け、私の質問に答える意思がないことを暗に示した。だけどバレバレだ。この

   人、絶対友達いない。

    その拗ねた態度が可笑しくて、私はまたくすくすと笑ってしまった。彼には悪いと思ったが、

   その反応がなんだか悪戯っ子のように見えて可愛かったから。

 

戻る  トップ  進む

                     

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送